排気量とは?


第3話 排気量とは?
単車乗りなら気になる点の一つにこの排気量がある。

単純に現在の法律では、399cc以上は限定解除となり、それ以下だと中免となります。
まあ、最近名前が中型から普通に変わりましたが・・。

単純に考えると排気量が大きいほど“偉い”という事になってしまうのですが、葛城は実はそうは思ってもいなかったりします。

排気量に対する概念は、単車道を語る上で一般的に一番変更があったものではないでしょうか?

例えば求めるものがスピードならば排気量にものを言わせる方法もあるでしょう。
しかし、普通に道を流すのであれば排気量が大きいというのは、スピードの“限界点が高い”という事になるのも事実です。

後は個人の考え方によるのですが、その限界を叩き出す為には法定速度を物凄く超えるという事実を当然覚悟しなくてはなりません。

通常走行する場合に気持ちの良い速度領域というのがどんな車にもあるものです。
単車に対してそれぞれの求めるモノは違うので何とも言えませんが、その最高速は絶対に必要なものなのでしょうか?

数年前までは
(これを書いたのは2005年頃です。)ZUでもフルチューンすれば、何とか上位ランクを保っていけましたが、今はもう無理でしょう。

最新式のオートバイはリッターマシンなら、時速200kmではなく300kmが当たり前となってしまい、今は350kmの時代ですので・・・。ZUでは・・・。

ZUはエンジンのポテンシャルが高く、1200ccまでのボアアップに耐えられるように設計されたというのは有名な話。
しかしその全性能を使っても、もはや最新式にはノーマル車でも届かないでしょう。

昔はコテコテのフルチューンがZU改の王道だったのに、今ではノーマルが一番の人気というのはこういう所に原因があるのではないでしょうか?

ノーマルでどれだけの性能が叩き出せるのか?の方が“粋”なのですね。そうすると今まで見向きもされなかった750ccが生きてきます。

例えば CB750Four_K シリーズなんてK0の砂型以外は、昔はZと比較して鼻くそのような扱いでしたし、ZUよりもZTの方が偉かったのです。

しかし、性能の限界が“明らかに”分かるようになると“750ccの拘り”のようなものが生まれ、ボアアップが悪く思われるようになる。

750ccに拘るから“粋”なのであり、ボアアップチューンは“野暮”となるのですね。

750ccに対する拘りが生じているなら、当然400ccの拘り若しくは250ccの拘りも存在します。

葛城もそれが“音”に対しての拘りであれば、400ccの方が好きです。


1975 CB400F
1975年式 CB400Four (408cc)
最近売り出されたCB400FOURは、“ヨンフォア”ではない。ヨンフォアは398ccと408ccがある。いずれにせよ、この単車の音は本当に素晴らしい!

葛城もヨンフォア大好きですが、一つだけネックが。ヨンフォアは車体が小さ過ぎるのです・・・。コスト高を理由に、僅か2年半しか販売されなかった。


ヨンフォアはソリッドカラーが良く似合う単車ですね。ノーマルのエキパイも流れるようでカッコ良いけど、ヨシムラのショート管を入れて小改造で乗るのがベストだと思う。

リッターマシンよりも400ccの方が音域が高く、レーシーな音になり好きですね。
CB400F(当然旧ヨンフォアです。)とかは、ホント素晴らしい音です。

アクセルを開けてぶん回しても実は“遅い”から気持ち良いのですね。

ホークUやGS400も同じ事がいえます。それに排気量が小さい方が素軽いアクセルワークが可能なので常用粋では面白いのです。

旧車に拘るなら最高速という事よりも、

その単車の持つ能力をフルに叩き出す事を目標にした方が“粋”
です。

当然、その単車の持つ能力を引き出すというのは、素材の良さを生かしたチューン若しくは、ほぼノーマルの状態でのポテンシャルアップを目指した方が良いのでは無いでしょうか?

よく、排気量の差を“兄貴と弟”という表現で書いてある本を見かけます。葛城はそれに対して異議がありますね。

排気量の差というもので、偉い偉くないという概念は無いからです。

例えば上記のCB400Fと、CB750four_Kとかは比較して兄貴も弟も無いでしょう。(笑)
違う単車です。
それぞれに拘りがあってその排気量になっているのです。

ある意味400ccのようにコンパクトだから精密ともいえる訳です。

リッター辺り100馬力とかよくそういう表現を使いますが、性能を排気量を上げる事で求めるというのは、最後の手段のように葛城は思います。

制限があるからこそ、そこにドラマがある訳ですね。



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