2005年のThought



偶然について そのA

そもそも、偶然と言えるものは、このYAHOO!辞書の定義によると“予測出来ない事が起こる事”を言うようですね。

これは、考えてみると大変興味深いのではないかな?と思います。

それは、“自分に”予測出来ない事なのか?それとも、“全ての人間”に予測出来ない事なのか?

例えばある人が交通事故を起こしたとする。起こした人は「いやー予測出来ない事でした。」

と言うでしょう。予測出来ないのであるから事故を起こす訳で、予測出来ていればよほどの変わり者でない限り事故は回避するでしょうね。

自分が何かの乗り物を運転していて事故を起こす場合もありますが、他人に巻き込まれる状況もあります。
500人乗りの飛行機が墜落する事もあります。予測していれば全員助かったのでしょうが、予測不能だったので残念ながら亡くなられた方もおられます。

時々聞くのは「実はあの墜落した飛行機に自分も乗る予定だったんですよ!」と言う話。
「しかし、偶然遅刻して乗り遅れて助かったんです。」と・・・。

飛行機に乗っていて事故に巻き込まれてしまったのですが助かった人も居れば、乗らないで助かった人も居る。単純に“事故”に関する点で考えてもいろんな“予測不能”があります。


ダイユウサク
1991年12月22日(日) 第36回有馬記念(GI)
ダイユウサク (一番左の黄色の帽子)

タイムは2分30秒6。2003年(平成15年)にシンボリクリスエスに破られるまで輝き続ける大レコードである。

単勝支持率137.9倍。15頭中14番人気のこの馬が単勝1.7倍の大本命馬メジロマックイーンを負かすとは誰も考えなかったからこそ、万馬券となった。

ダイユウサクはその後1勝もせず引退・・・。一世一代の大駆けであった。まさに予測不能・・・。


「想定内です。」とはホリエモンさんの名言ですが、しかし、一体人間はどこまで想定出来るのでしょうか?

勿論、確率ってあると思います。健康的な生活を送っている人が不健康な生活を送っている人より長生きするでしょうね。
それは当然です。懸命に勉学に励んでいる人は遊び呆けている人より受験戦争に勝ち抜く可能性は高いでしょう。
それはそうでしょうね。

しかし、何がどうなるかを本当の所人間は理解出来ているか?と言えば答えはNOでしょう。

当然“物事が良く運ぶ”(つまりは運か?)為の方法を知るというのは単なる無謀であるよりも賢明であるとは言えると思います。

ですが、自分の頭の中だけの“想定内”は現実という想定外の嵐を生きる上ではあまりに貧弱かもしれません。

だからこそ、人生は面白いとも思いますね。イレギュラーだからこそ面白い!


 2005年12月16日 (火) PM 12:55 (雪)

偶然について その@

“偶然”って考えると大変不思議なもんだなと最近何故か思いますね。

偶然そうなったにしてはあまりにも素晴らしいタイミングだったとか、たまたまそうなったとか・・・。まあそれが“偶然”というものなのですが・・・。(何が言いたい・・・。笑)

それは日本では別名“運”とも言えるかもしれません。ちなみに葛城は“運命”と“運”ってちょっと違うと思っております。


Yahoo!辞書で調べた偶然の定義
Yahoo! 辞書    
ぐうぜん【偶然】
(名・形動)[文]ナリ


1 何の因果関係もなく、予測していないことが起こること。思いがけないこと。また、そのさま。「―に街で出会う」「―の一致」

2 〔哲〕〔contingency〕事象の因果系列に対して、それに含みえない事象または因果的に予測できない事象が生起すること。



対称となる言葉
偶然⇔必然


(副)思いがけないことの起こるさま。たまたま。
「道で―出会った」

私の友人にインド出身のインド人の方が居られます。(東京都新宿区在住ですが・・・。)

以前彼はこういったことをおっしゃっておられました。
「ヒンズー教などの輪廻転生を信じる方々は、次の世代に望みを託すので努力をしない。諦めるというか・・・。インド人は悲観的ではないけど、その現在の状況を甘んじて受け入れる長い歴史があるんです。」と・・・。

そこで葛城は考えてしまった・・・。
なるほど、ヒンズー教はある意味“運命論”的な考えですよね。

例えば輪廻とかっていうのは生前に行なった事柄によって何か別の生命体に“生まれ変わる”という訳ですから・・・。

たとえ、今現在の境遇が恵まれていなくてもそれは“仕方の無い事”と考える習慣がインド人にはあるようですね・・・。

何故なら輪廻転生ならば、前世で行なった事で?現在が決まるという訳ですから・・・。

では、一体現在生きているという現実は何なのだろうと考えると、それはちょっと無理がないかな・・・?

と、葛城は恐れ多くも思ったりする。

ですが、それは長い歴史の中でインドの人々がそう考えたのである訳で、日本人の私には理解出来ない環境や土壌があるのかもしれません・・・。

自分が世の中に生を受けた時に既に人生が“こうなる”と決まっているなら、確かに努力は必要無いのかもしれません。

しかしその理論では、現在もしも苦しんでいるとするならばその苦しみはその世代(生まれ変わる前の今)には修正は本当に不可能という事なのでしょうか?

うーむ・・・。今回はあまりにもえぐり込んだネタを論じてしまったかもしれません。

今回は議題を提出するだけしておいて、次回に逃げる事にします。


 2005年11月21日 (火) AM 9:18 (晴れ)

繁栄

先日、本屋で日本を裏で動かした黒幕について書いてある本を見つけました。

個人資産1兆円の黒幕やら、政治家を動かすフィクサーやら、それはそれは凄い世界です。 権力を得る、資産を得る・・・。確かにそれらはあって悪いものではないですね。

世の中の人は何かそういったものを得る為に働き、行動しているのかも知れません。 

しかしです。彼らが得たものは彼らが失ったものと比較して釣り合うものなのでしょうか?

何かを得ているというのは同等の価値を持つ何かを失っているという事でもあるのかも知れません。


鋼の錬金術師
鋼の錬金術師
病院での待合室であまりに暇だったので、リビングルームに置いてあった“鋼の錬金術師”1巻をパラパラと捲ってみた。

なるほど・・・。“等価交換”ね。ムムー・・・。葛城と同じような事述べてますなー。

しかし、この手の漫画は今の子供達に絶大な支持率があるようだけれど、私は嫌いだなー。正直言って。

何故か?こういう“悪霊”に憑かれたようなもんを読んでいると、本当に“とり憑かれるぞ!”

考えてみますと、たかが漫画されど漫画で、その影響力は凄まじいですよね。

愛情を失って富を得る。感情や人格を破壊して地位を得る。寿命を短くして楽しみを得る・・・。

考えてみれば人生とは交換によって成り立つものとも言えるかも知れませんね。 

そう考えてみるならば、“繁栄する”というのは実に難しい事だと言えるでしょう。

何かを失う“負”を背負う事無く栄えるというのは不可能です。
 
いずれ人は土に還りますし年老いていきますので、生きるという事だけでその日一日何も成さないならば、その人生で確実に10000000分の1(いや、場合によってはそれ以下の確立でか?)位の何かを失っていると思います。 

問題は失った一日に対して自分の行動等は価値の上回るものだったのか・・・。
それを考えるというのは大切だなと葛城は思います。 

一日に対しての“負”を上回る現実を積み重ねていくのが人生だとしても、
さらに大きくものを見てその“負”を上回る積み重ねを行なったそのもの自体が更に“負”だとしたら、虚しいものですよね。 

それはちょうど、会社の為に懸命に働いて働いて犠牲を払って貢献しても、その会社自体が倒産してしまったりするのと似ているかもしれません。 

金銭的、物質的なものがあった方が良いのは言うまでもないですが、無いというのが“負”という事でも無いかな?と思ったりもしますね。

肝心なのは“満足”するという事か? 

思うのは一万円で楽しめる事は、工夫すれば千円でも楽しめる。千円で楽しめる事は工夫によって百円でも楽しめるのでは?という点ですね。 

あまり倹約至上主義者のようにセコく生きるという意味ではなく、“満足”する。というのは大切な事のように思います。

人と比較するのではなく、“満足”する。 そうすると、自然と栄えていくのでは?と葛城は思います。


 2005年10月11日 (火) PM 2:15 (晴れ)

語る

人は語る生き物です。何かに付けて何かを語る・・・。
人生観、主張、好きなもの、好きな事、拘り・・・。何かを口から語る事によって何かを伝えるというのは当然の方法ですよね。


でも、口で何も語らなくても、語れなくても、伝わるものもあると思う。
そして、時にそれは何よりも雄弁であったりします。


「好きだよ」という一言。「愛してるよ」という一言。それは、たった一言で世界すら変えるほどの力を持つ言葉・・・。

でも、その一言よりも力強いのは、“無言”という言葉かも知れません。
古来より欧米人は口で語り、日本人は背中で語る。

桃の花
桃李言わざれども下自ずから蹊を成す
(桃李不言下自成蹊)

意味
桃やすももは何も言わないけれど、その綺麗な花や実の下には自然と道が出来る。

それをフランスの諺で言えば

良いワインに宣伝はいらない。
 (A bon vin point d'enseigne. )

となる。
司馬遷『史記』(李広伝賛)より
太史公(司馬遷)は言う。

昔の言葉に「その身が正しければ命令せずとも実行され、その身が正しくなければ命令しても従われない」というのがある。

これは、李将軍のことを言っているようなものだ。私が李将軍を見たところ、慎み深く、田舎者のようで、口は、うまく話すことができないようだった。

しかし、李将軍の死の日には、天下、彼を知る者も知らない者も、皆強く悲しんだ。

彼の、その忠実な心は、本当に士大夫に信用されていたものだった。

諺に「桃やすももは何も言わないが、その下には、自然と小道ができる」というのがある。

この言葉そのものは、小さなことを言っているが、大きなことをも喩(たと)えられる言葉でもあるのだ。


中国前漢時代の名将軍である李広は、北方の異民族、匈奴から“漢の飛将軍”と恐れられた。

一方、部下に対しては思いやりが深く、行軍中、飢えと渇きに苦しんでいる時、たまたま泉を発見しても、部下が全員飲み終わるまでは、自分は決して飲まなかったし、食糧も部下全員にいきわたるまでは、手をつけることはなかった。

このため部下も心から李広を慕い、李広のためなら喜んで死のうとするものばかりだったという。

雄弁と無言・・・。どちらが良くてどちらが悪いという事ではありません。その状況もあるでしょう。

しかし、無言の言葉の意味を理解出来るか出来ないかは、自分次第という事でしょう。


2005年9月22日 (木) PM 23:48 (晴れ)


完璧

人間は知らないうちに完璧を求める生き物です。

確かに完璧、完全なものというのはどんなものでも素晴らしいですよね。

ですが、何をもって完璧というのかは人によって異なるからこそ厄介でもあります。

Aさんにとって完璧なものが、Bさんにとっては60%の仕上がりであったり、その逆もあるのが世の中です。

その求めるものの基準レベルは高いに越した事は無いですけど、上を見てキリが無いというのも真実ですし、当然の事ながら下を見ても限りはありません。

何処かで妥協しなければいけないのが人間なのですが、そのラインを何処で引くのかが大変難しいと葛城は考えてしまうのです。

「手を抜け!」「適当だ!」と自分に言い聞かせるのですが、そうすると手を抜きすぎて前に全く進まなくなってしまう・・・。

かといって完璧を求めると「こうじゃない!」「ああでもない!」と進まない・・・。

難儀である。(笑)

葛城にとってバランスを取るというのは全くもって難しいです。そんな私がここ数年気を付けているのが、“80%最強論”です。


徳川家康
徳川家康 
三方ヶ原戦役画像


元亀3年(1572年)に西上を開始した武田信玄に三方ケ原で大敗した家康は、生涯唯一の敗戦を肝に銘じるため命からがら浜松城に逃げ帰った自分の情けない姿を描かせたと伝えられる。

その姿は貧乏揺すりをして爪を噛み、わざと落ち着かない様子として描かれている。


そんな彼だからこそ後に天が味方したのでしょう・・・。
『家康公の遺訓』

人の一生は重荷を負って遠き道を行くが如し、

いそぐべからず。

不自由を常と思えば
不足なし。

心にのぞみおこらば
困窮したる時を
思い出すべし。


堪忍は無事長久の基。
怒は敵と思え。


勝つ事ばかり知って
負くる事を知らざれば、

害、その身に至る。

己を責めて人を責むるな。
及ばざるは
過ぎたるより勝れり。


家康公遺訓 
慶長八年正月十五日

100%の仕上がりだと次がありません。
60%では自分的には不完全燃焼と感じてしまいます。

実は、80%というのは自分にとって“絶妙のバランス”ではないか?と感じています。

残りの20%は次回への課題という投資に利用して、わざと残しておく。そうすると何故かやる気になり前に幾分か進めるような気がするのですが・・・。(気のせいかも知れません。)

そんな変な事を言うのは葛城だけかも知れませんが・・・。
そして、勿論その考え抜いた80%であっても人によっては60%だったりする・・・。(笑)


2005年9月6日 (火) PM 14:03 (台風)

協力

人はお互いに協力する事が出来るならもっと大きな事が出来ます。

しかし、協力を阻害する要素って意外に多いですよね。何がお互いに協力する事を邪魔するのか・・・。

一概にその理由は言えませんが、内面的な事で言うなら“自尊心(プライド)の欠如”は協力を阻害する大きな要因と言えそうです。

残念な事に“人と競争する”“人と比べる”事でしか自分の価値観を確認出来ない人って存在します。

勝ち負けでしか自分の価値観を判断出来ない人は“自分を向上させる”事よりも、“他人に勝つ”事が人生の全てとなります。

スポーツ界などでは“ライバル心を持つと励みになる”と言いますが、お互い励ましあって物事に取り組むのではなく、打ち消し合うならあまりその人との人間関係は意味は無いかも知れませんというより、そのような人が周りに居るならとても有害です。

自尊心(プライド)の無い人は“他人に負けたくない”という事が人生の全てなので、人を勝たせません。
小さい範囲で自分を守ろうとするので他人の意見に耳を傾ける事も無いでしょう。
最悪、他人の足を引っ張ったり敵視してしまったりします。

そういう人はたとえ“理に適う”内容でも建設的な有益な意見を受け入れる事は無いでしょう。

他人の成功を妬(ねた)むような小さな人間にしか成らないでしょうね。当然行なえる業も小さな事しか行なえないでしょう。そして、他人の失敗を喜んだり、他人の不幸を願ったり・・・。


イソギンチャクとクマノミ
共生
自然界においてある種の生物は全く違うジャンルの世界であっても、お互いに協力する習性を持っています。

イソギンチャクとクマノミという魚などは本来敵視して然るべきなのですが、お互いを助け合う行動をとります。それを“共生”といいます。
共生についての「Wikipedia」

反面、協力出来る人というのは自分の自尊心(プライド)を他人の評価によって築きません。

人にどう評価されたとしても自分の自尊心(プライド)が揺らぐ事が無いので他人の意見にも耳を傾ける事が出来ます。

他人の意見に耳を素直に傾け、自分にとってそれが良いなら、“理に適う”なら受け入れる度量の広さも持っています。

そして、自分が意見した事を人が受け入れてくれなくても自尊心(プライド)が揺らぐ事はないでしょう。

他人の評価によって自分の自尊心(プライド)を築かないからこそそれが可能なのです。

“勝つ、負ける”“敵、味方”といった他人が存在しないと成立しないような自尊心(プライド)ではなく、“自分”というものを持っているからこそ、これが可能とも言えます。

協力するというのは“盲目的な追従”とは意味が違うのです。
当然、嫌々ながら行なうという事でもありません。他人を捻じ伏せて何が何でも従わせるといったものでも当然ありません。

お互いの“理に適う”(ちなみにそれは“利”ではないです。まあ、“理”は“利”に通じると思うのですが・・・。)のだから協力するというのは素晴らしい事だと葛城は思います。

お互いが“公平”だからこそ協力という素晴らしい関係が出来ると言い換えられるかも知れませんね。


”お互い様”というのは良い言葉だと改めて思いました。
2005年8月25日 (木) AM 8:37 (雨)

友について

友達と一概に言いますが、いわゆる友達にも色々居ます。

只の知り合いや仲間にも友という言葉を当てはめる事が多いようですね。
利害関係のお付き合い、お互い深入りしないお付き合い、何かについて協力しようとするお付き合いなど様々ですね。

「真の友とはこうあるべきだ!」と熱く語った所で仕方の無い事かも知れません・・・。

色々な人間関係が存在するのは事実な訳で、それらを否定しても始まりません。ただし、こうは言えるのではないでしょうか?

本当の友人とは“相手の益”の為に動けるか?という点です。何も、“友の為に命を捨てる!”とか、“借金の保証人になる!”といった極端な事ではなくても、
単純に“相手の益”のみを考えて行動できるか?というと意外に難しい事のような気もします。


管仲
管仲の画
(? - 紀元前645年)
管仲(かんちゅう) 
中国春秋時代における斉の伝説的な政治家。諱は夷吾、字が仲。後に管子とも呼ばれる。

桓公に仕え、桓公を覇者に押し上げた。

友人の鮑叔牙(ほうしゅくが)との友情関係は“管鮑の交わり”という諺(ことわざ)に成るほど優れたものだったという。


唐代の詩聖、杜甫(とほ)の詩に“貧交行”と題して、

  手を翻せば雲となり、手を覆えば雨。

  ふんふんたる軽薄、なんぞ数うるを須いん。

  君見ずや
管鮑貧時の交わりを、


  此の道 今人棄てて
土の如し。

 
というのがあります。友情の定義は唐の時代で既に土のようなものとなって!?・・・。果たして現代では・・・。

司馬遷の「史記」管晏列伝に記されている
管仲が語った言葉


『私は貧乏だったころ鮑叔(牙)(ほうしゅくが)と共に商売をし、自分の取り分を多くしたが

鮑叔は私を「貪欲だ」とは言わなかった。
私が貧乏だった事をよく知っていたからだ。

私はそんな鮑叔のためにある計画を立て、失敗し鮑叔にも大いに迷惑をかけた事があったが、鮑叔は私を「愚かだ」とは言わなかった。

時の利不利がある事を知っていたからだ。

私は3人の主君に使え、3回ともすぐ追い出されたが、鮑叔は私を「賢明でない」とは言わなかった。

私が不運だと知っていたからだ。

私は3回戦争に従軍し、3回とも逃げ出した事があるが、鮑叔は私を「臆病者」とは言わなかった。

私に老いた母がいる事を知っていたからだ。

公子、糾(きゅう)が敗れた時、仲間の召忽(しょうこつ)は殉死した。
私は牢に入れられ恥をさらしたが、鮑叔は私を「恥知らず」とは言わなかった。

私が耐え忍んで生き延びる事を恥とせず、功名が天下に表れない事を恥としているのを知っていたからだ。

私を生んだのは父母だが、私を本当に知っているのは鮑叔だ。』


後世、この管仲と鮑叔の仲をたたえ、固い友情のことを“管鮑の交わり”と称すようになったのである。 

管仲を推薦したのは鮑叔であるが、鮑叔は常に管仲の下位にいた。
天下の人々は管仲の賢明を称えるより、鮑叔の人を見る目を称えたという。


友人が自分よりも出世したり栄えたり幸せになっているのを見て、妬(ねた)んだり、僻(ひが)んだりせずにいられるか?とか、表面に表れない些細な点なのですが、やはりそういう気持ちを持てるかどうかというのが友情関係において重要なのでは?と葛城は思います。

もしも、地上に2人しか人が居なかったらシンプルで簡単な関係でも、60億も人が居れば利害関係や第3者との関係などによって複雑な人間関係になってしまいます。

まあ、60億の人の全てを考える事は事実上不可能でも、自分の周辺にいる100人いや10人の事だけでも大変な事です。

その中でバランスを上手に取りながら“相手の益”を考えられるか・・・。八方美人に成らずに、自分の人気の事だけを考えずに行なえるか・・・。

友情関係は人間に限った事では無いにしても、感情を伴うものであるのは言うまでもありません。“どんな気持ちで?”というのは容易に表れない事だけに難しいのかも知れません。


2005年8月16日 (火) PM 14:31 (晴れ)

自由について

自由って素晴らしいですよね。

自由と名が付く有名なものを考えてみても、自由民主党とか自由の女神とか色々ありますが、
自由と付くと非常な開放感を感じてイメージアップにつながるのかもしれませんね。

しかし、自由とは一体何なのでしょうか?フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、自由の概念自由とは、


自由についての「Wikipedia」
(2005.8.3現在)

『他のものから拘束・支配を受けないで、そのもののあるがままにあること。
義務とは、切り離せない関係であるといわれるが、それは全くの間違いである。
やむを得ない理由により義務を果たせない人の自由を否定するものであるとの批判もある。

近代における自由の概念は、他者の意志にではなく自らの意志に従って行為することとして捉えることができる。

この自由概念が封建的な身分制からの解放という思想を導き、ヨーロッパにおける市民革命を育んだ。

自由はまた他者の自由とも衝突する。
他者の自由を尊重せず勝手な振る舞いをしてはならない、という考え方は、J.S.ミル『自由論』のなかで表明され、今日他者危害の原則として広く支持されている自由観である。』


とありました。難しいですねー・・・。

一言で自由と言っても一体何に対しての自由なのか?という問題もありますしね・・・。

しかしこう言い換える事も出来るのかな?と考えます。

例えば、音楽において「俺は自由だ!」と言ってチューニングの合ってないギターと調律されていないピアノとリズムのとれていないドラムと弦の張っていないベースがセッションしたとして、それは“心地良い音楽”となるでしょうか?

確かに“自由”にそうする事は可能ではあります。しかし、良いか?というと結構苦しいですよね。


音叉
私の愛用している
メーカー不明の音叉

Aの音をなんとかして体で覚えようと、常に財布の中に忍ばせているA=440hzの音叉。
しかし、困った事にこの音叉は440hzではなくなってしまった。(財布の中に入れていた為に曲がったか、磨り減ったか・・・。)


現在、音楽は一般的にA(ラ)=440hz を基準に統一されています。
場合によっては442hzであったりいろいろあるようですが、基準があって初めて調和がとれると言えます。

単純に音楽という世界であっても一応のきまりはあります。それを無視するのは果たして自由といえるのか・・・。

みんなが滅茶苦茶な基準をもって主張するなら結局は便利さを求めて“基準”が生まれる事になる訳で、それを無視するのは果たして自由なのだろうか・・・。

音楽のみならず、それは全ての世界において通用するのではないだろうか。そしてその自由に行動した事の責任(義務とは異なる)は、どうやら自らが刈り取る事になりそうですね・・・。


2005年8月4日 (木) PM 13:25 (晴れ)

苦楽について

どんな場合でもそうですが、嫌な事を行なうというのは苦痛ですね。

仕方なくそれを行なっていたとしても嫌々やっている事というのはそう長くは続かないものです。

家事にしても掃除にしてもさらには自分の仕事にしても・・・。何にでも当てはまります。

考えてみると、最初好きだった事でも、それを“続けて出来るか?”というとそうでも無いというのは結構ある訳です。

始めた当初はそんな点など考えもしない訳ですが、結構重要です。

果たしてその行為が習慣として確立出来るか・・・?“習慣を確立する”それが人生なのかも知れません。

ある行動が習慣になるのは何故か?それはそれが“楽”だからでしょうね。たとえ辛いトレーニングでも何故習慣になるのか?それも楽なの?だってキツイじゃん。何が楽なんだ?そんなの全然好きじゃないよ。

そう思っている方はいつか挫折する事でしょう。
何故なら苦しい事は続かないからです。

ハードなトレーニングをされるスポーツ選手で一流の成果を上げておられる方は大抵“楽しむ”という術を心得ておられます。

練習そのものはキツイかもしれませんが、成功している人は自分がその練習を通して得る“結果”を夢見ていたり、その行動によって成し遂げられる“達成感”を希望として膨らませる事が出来ているのですね。植物が良い栄養を取り入れて成長を促進させるように・・・。


謎の芽
庭に生えていた謎の芽
♪「このー木 何の木 気になる木ー」♪ の歌ではありませんが、庭に生えていた謎の芽です。(多分、只の雑草・・・。)

昭和天皇は「雑草という名の草は無い。」という名言を語られましたが、確かにそれは真理(正しい理論)です。

しかし、その芽が多くの人に益となり愛される成長を遂げるかは知る由もありませんが・・・。

楽しい事というのは大抵“楽”です。傍目には、「苦しいのに良くやるよ・・・」と思えても当人にとってはそれが“楽”なのです。

という事は多くの楽しい点や面白い点を探す事の出来るポジティブな人は自然と“楽”な道を選んでいるという事ですね。

そういう訳で、何でも自分の好きな事を行ないましょう。
でも、それが自分の為になるかは自分で良く考えましょう。
自分の為になる事を嫌うという方はもう一度良く考えましょう。

結局“自分の蒔くものは自分が刈り取る”訳ですので。


それは恐ろしくもあり、
嬉しくもありますね。(笑)


2005年7月14日 (木) PM 14:25 (晴れ)


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