2006年のThought



責任

今年最後になるであろう葛城の能書きの主題は、“責任”である。

責任、何と重い言葉だろうか・・・。
しかし、責任はそれを“果たした時に”大きな喜びを生むものでもありますね。最も大きな

責任の一つを挙げると、例えば「育児」これは大変な責任です。

子供を産むという事は(勿論父親にとっても)大変な事ですがそれ以上に、子供を立派に育て上げる事は、今日とても大切な課題となっていますよね・・・。

育児だけでなく、仕事においても責任というのは重要です。例の姉羽さんのビル建築問題なんかもそうでしたが、責任感の無い行為がどれだけの社会問題になるか・・・。

というように考えると、責任感の大きさというのも人にとって重要な事だなと思います。

ここ最近で消えた言葉に“フリーター”という言葉があるように私は思います。みんながフリーターになった為、殊更“フリーター”という言葉が問題にならなくなったという意味で消えた言葉という訳です。

勿論、今でもフリーターっていう言葉は使いますし、存在していますが、意味合いは確かに以前と比べて変わりましたよね。

フリーターにもようやく権利のようなものが認められて、社会保険がどうのこうのという事が国でも議論されているようですね。

考えてみますとフリーターと正社員って何が違うのでしょうか?

多くのフリーターは“時給で”ものを考えます。というよりフリーターとはそういうものです。

反面、正社員は仕事量や達成する“ノルマで”ものを考えます。会社にとってどれだけの利益が出るかという事を正社員というのは比較的考えるように私は思います。

違いは何処にあるのでしょうか?

それは“責任”と言えるのではないかなと思います。

時給的なものの考えで仕事をする人は、“楽に”という事が主体になります。雇われた時間が楽であればあるほど“美味しい仕事”という訳です。

しかし、ノルマでものを考える人は“結果”が重要になります。結果という責任を果たさなければならないので、正社員は大変ですね。

反面、給料も結果を出せば当然大きなものとなります。


哲也
勝負師伝説 哲也

講談社刊「週刊少年マガジン」に連載された、さいふうめい&星野泰視原作の「勝負師(ギャンブラー)伝説 哲也」は、
終戦の混沌の中にある日本を舞台に後に"雀聖"と呼ばれた伝説の勝負師・阿佐田哲也を描いた異色の漫画である。



ママ 「不思議だね・・・。」
房州 「賽の目が自由に出せることがか?」
ママ 「博打打ちっていうのは楽して大金を稼ごうって人種だろ?でもその割にはやけに勤勉じゃない?」
房州 「怠惰を求めて勤勉に行き着くか・・・。カカカ!それもそうだな!」

哲也の師匠の房州がバーのママに好きなサイコロの数を言わせ、見事にコントロールしてその目を出すというシーンで・・・。

イカサマ技を「勤勉な練習」で身に付ける。確かに不思議だ。

最近は正社員でも時給労働者でも、あまり変わりなくなってしまいましたね。

でも責任のある仕事をこなすようになると、人間として大きくなるのも事実と思います。仕事で本当に重要な事はそれで、働く人に最も必要なのは“責任感の大きさ”ではないかな?と葛城は思っています。

人のせいにして回避したり、面倒臭い事から逃げたりするのは、自分自身の成長にはならない。

たとえ失敗したとしても正面から問題にぶつかっていくというのはカッコ良いと思うのですが、どうでしょうか?

問題や課題にどう対処するかを常に考えているうちに、人間としても益々大きくなる。責任感の副産物と思っています。

来年もそれぞれの“責任をこなせる素晴らしい人間”に何人会えるか楽しみです。当然私も励まねば!


2006年12月31日 (日) PM 20:07(晴れ)

お金

大昔に、バイト先のお兄さんに言われた事がある。

「葛城君、世の中の問題の8割はお金の問題だよ。」と。

私は100%そうとは思わなかったが、今でもその言葉を覚えているという事は、そこに何かの意味があるのかも知れません。

実際その方は、お金に苦労してきたようで、お金に対してもの凄い執着がありましたね。
私の知らない苦労があったのだと思います。

あるお金持ちであろう方の本を読んでいてこういう言葉が出て来ました。

「お金に対して見切りの良い人は一見良い人に見えるけど、そのお金が生きた使い方になっているかを見極める事は肝心」と。

自分に対してグサリと釘を刺す言葉でしたね。確かに“何の為に”お金が必要なのかというのは大切と思いました。

大金持ちになったとしても、精神安定剤を服用しなければならなかったりするなら、それは哀しい事と思いますし、
只の金しかない人間になるのもちょっと哀しい気がします。

以前新宿に居た時、怪しいお金を持つ人と知り合いになりました。法外な額を稼いでいましたが、その内容は決して良いものを生まないものでした。

色々ありますよね。闇金融とか、薬とか、売春とか、大きな規模で言うなら武器商人とか何とか色々と。

お金って結局道具ですよね。道具なので使ってナンボなのはその通りと思います。
貯めても、使わないなら意味は無いのかも知れません。

しかし、どう使うか?そこが鍵かもしれないと思いました。お金が人生なのか?

うーんそうとは思わないな。しかし、大金を持った事の無い私にはこの問題は分からないのかも。

でもこれは言える。今まで私の出会った大金持ちは、全くお金を問題にしていなかった。


キング・ソロモンの秘宝
キング・ソロモンの秘宝
1985年公開の古代イスラエルの王ソロモンが所有していたという伝説の宝物をめぐる冒険映画。

聖書によると、ソロモン王の個人の金(GOLD)だけで年間307億9716万円の収入があった。

ソロモン王の時代には銀は有り過ぎて価値が無かったらしい。大抵の富豪は苦労したゆえの結果であった訳なので、
世襲により財産をそのまま受け継いだソロモンはこれまでで最強の富豪といえる。

お金を問題にしないほど大金持ちだったのか?お金を問題にしないから大金持ちになったのか?

私は後者と思う。そして、お金を問題にしない大金持ちは、何となく雄大で(尊大とか、傲慢ではない)大きな人間でしたね。

世の中の問題の8割はお金の問題というのは、“別の意味で”そうかな?と思いました。


2006年11月6日 (月) PM 12:09(曇り)

マニア

“一芸は万芸に通ず”これは宮本武蔵の書いた“五輪の書”という本の中にある言葉です。

どういう意味かと申しますと、
一つの事柄を極めると全ての事も理解出来る。という意味です。

勿論、一つの専門的な事柄を理解して、それで世界の全てを知っているかのように考えるべきではありませんが、
精神的な意味合いで言うなら、確かに一つの事柄を極めるなら、他の事柄を理解する事は出来ると思います。(私自身はまだ何かを極めたとは思っていませんが・・・。)

例えば、新しくラーメン屋を始めた人が居たとします。

「何でラーメン屋に成ろうと思ったんですか?」と問うと、

「ラーメンが好きだったので。」と答えます。確かにこれで動機は間違ってはいないと思います。

しかし、ラーメン屋を辞めた人に、「何でラーメン屋を辞めたんですか?」と問えば、あらゆる答えが返って来るでしょう。

「夢と現実は違う」だの、「儲からなかった」だの・・・。

いつも思うのですが、辞める人間の辞めた理由など続けている人にとって、何の励ましになるでしょうか?

“儲からなかった”という答えが返ってきた場合、その人はラーメンが好きだったという事ではなく、お金が好きだったという事だろう。

大儲けしたかったのなら、確かにラーメン屋以外の方法は今の世の中いくらでもある。

確かにその人は“ある程度は”ラーメンが好きだったのは確かだろう。

しかし、ラーメンの為に犠牲を払う事までは出来なかったというのは本当にラーメンが好きだったとは言えないと葛城は思う。

勿論、バランスって大事です。長くラーメン屋を続けたいと思うからこそ、自分自身の健康管理をしたり、研究費などを投資したりしますが、無茶はいけません。

無茶するのが好きと言う事か?というとそうではないと思います。(勿論好きな人にとってはそれは無茶ではないという事になるのであろうが・・・。そういう人は凄いね!)

最初はラーメン好きだったという動機で始めたラーメン屋。しかし、思ったようにお客さんが入らない。

そんな時どう考えるか?美味しいと評判の他のラーメン屋さんに頼み込んで修業をさせてもらったり、実際にアドバイスをもらったりするだろうか?

ラーメンの味は良いかもしれない。しかし、自分の接客態度はどうだっただろうか?店内はキレイに清掃されていただろうか?
本当にお客様に満足してもらえただろうか?価格の設定は適正だっただろうか?
金策問題をクリアする為に何か手を打つだろうか?対人関係などの試練も超える事が出来るだろうか?・・・。

ラーメンの味に付いては問題無し。しかし、そのラーメンに付随する他の幾多の事柄はどうだろうか?

ラーメン屋で成功するという事は、そういう全ても当然含まれるというのが事実です。

それは、ただ「ラーメンが好きだったので。」で済む問題ではありません。

しかし本当にラーメンが好きであれば、その障害もいつかは超える事が出来るでしょう。
若しくは残念ながらラーメン屋を辞めても、ラーメンに関係する何かを続けようとは思うかも知れません。

そこまでやって、初めて“好き”と言えるのではないでしょうか?

苦労した人に苦労人が理解出来て、苦労人は苦労した人を助ける事が出来るのは、
そして助けたいと思うのは、当然そうやって同じように苦労したからでしょう。(笑)

反面、どんなに苦労した人でも助ける事が出来ない人が居るとすれば、それは苦労しない人です。苦労したいと思わない、
別の言い方で言うなら、探究心の無い、甘い考えの人はどうしようもありません。
それは論外ですね。

しかし、一つの事しか出来ない人でも次のようなお話があります。


葉隠
三島由紀夫著 葉隠入門
葉隠で最も有名な言葉は、「武士道とは死ぬ事と見付けたり」という言葉だろう。

先日お会いしたある方は、「しかし、実際には殉死の制度を最初に改めたのは、鍋島藩だったんじゃ!」と熱く言われていました。

この本で言いたい点は、要は“命を掛けて責任持った生き方をしなさい”という点と思います。


現代病として、燃え尽きとかニートとか色々ある訳ですが、責任感が無いというのはやっぱ駄目ですよね。

担える範囲の責任で、そして無理せずに責任をこなせる人間に成りましょう。

佐賀鍋島藩に伝わる武士道書の『葉隠』巻四「勝茂様御咄」の佐賀鍋島藩の初代藩主鍋島勝茂のエピソードなのですが、

勝茂公、「御鷹師何某御用に立者に候哉」と、頭人に御尋被遊候。其御受に、「右の者は、不行跡者にて何の益にも立不申候え共、御鷹一通りは無類の上手にて候」と申上候に付、則御褒美被下候。其後、又一人の鷹師の義を御尋被成候御受に、「御鷹一通りは無類の上手に候え共、不行跡者にて、何の益にも立不申」と申上候に付て、則御払被成候由。

訳鍋島勝茂が、ある鷹匠(鷹を育てる人)の評判を鷹匠の頭に尋ねると、

「行いが悪く役立たずですが、鷹の扱いは上手です。」と答えた所、その評価された鷹匠は褒美を頂いた。

その後、また別の鷹匠の評判を尋ねられ、その時は「鷹の扱いは上手ですが、行いが悪く役立たずです。」

と答えた所、その評価された者は追放された。

というお話です。

これはよく、言葉のニュアンスの差という事で用いられるお話ですが、こういう意味にも使えると思います。

その一芸は他の人の万芸を捻じ伏せるだけの威力を持っていたのか?と。

追放された鷹匠が相手にそう評価されたという事は、追放になって仕方が無い。
相手に与える印象が、どちらのニュアンスか?という事ですね。

紙一重の評価でも、追放された人のニュアンスが役立たずであるという事が“先行した”という事実は結果、駄目という事でしょう。

オタク結構!マニア歓迎!宮本武蔵は剣術オタクじゃ!言うなれば。

しかし、そのオタク度が半端じゃなかったから滅法強くて、しかも本まで書けた!

彼のマニア度は生き方にまで波及した訳ですから。凄いですね。

彼は、ただ剣術が強かったという事ではないです。ラーメン屋で言うなら“只の”ラーメン好きというだけではなかったといえるでしょう。

“本当に”好きだった。

幾多の障害を乗り越える事が出来るまでに。

一芸は万芸に通ず!


2006年9月5日 (火) AM 0:01(晴れ)

底辺

人生、下を見たらキリがありません。

テレビや新聞で嫌というほど扱われる犯罪などは底辺の一角かも知れませんね。

“家族を殺した”とか、“性犯罪”とか、“虐待”など挙げればキリがありません。

そういった他人の不幸を見せしめに面白おかしく取り上げる報道者達・・・。
大嫌いですね。

それを他人が観ても何の解決にもならない。犯罪に至る過程というのをテレビや新聞で取り上げても、本当にそれを他人が理解出来るだろうか?

決して犯罪者に同情する訳では無いが、加害者も被害者なのではないかなと時々葛城は思ってしまう。

勿論、罪を犯した人間はそれを環境のせいにして甘えるべきではない。産まれた時から不幸な環境に置かれる人というのは確かに存在する。

だからといって犯罪者になるというのはおかしい。それは言い訳に過ぎない訳だ。

アル中だろうがヤク中だろうが、借金地獄だろうが何だろうが、全て自分の“選択”がそうさせる。

人は“蒔いた物を”刈り取る訳ですね。

望まれないのに妊娠してしまう女の子が居たとする。強姦されたとかそういう事でなくてもそういうのはよく聞く。
しかし、そういう行為を“した”という“選択”がその女性にはある訳だ。

選択した事を“責任”持って行なう事が大切ですね。子供を産んだのなら、養育する責任は当然“自分に”ある。

「彼氏が逃げて・・・。」みたいな事を言う人も居ますが、そんな奴と関係持ったのは“自分の”責任です。

“やりっ放しやっても逃げれる”みたいな感覚が人間にはあるかも知れない。

“ばれなければ大丈夫”みたいな風潮があるかも知れない。
しかし、人生そんなに甘くないと思う。

蒔いた物は“必ず”刈り取る事になる。自分の責任から逃れるのは生きている限り“不可能”です。

夜の新宿の歌舞伎町で一般人がヤクザに間違えられて拳銃で撃たれて死んだという事件があった。

撃たれた側の親族は当然のごとくテレビで怒っていた。

しかし葛城は思う。
夜の歌舞伎町でなら撃たれて死ぬ事もたまにはあるだろうと。
それよりも何でそんな所を一般人がうろうろしてんだ?
一般人がヤクザにどうして間違えられるんだ?と。

そういう身なりをしていては、そしてそういう場所をうろうろしていたら、間違えられても仕方無い。

間違えた方が圧倒的に悪いとはいえ。自分の行動の責任を誰が取るか。それは“常に”自分。他人のせいではない、自分の責任である。

それを認識出来た人間ならば、たとえ過去にどんなに大きな負債を負ってしまったとしてもそれは回復可能と思う。

しかし、大きな負債を負ってしまった人の多くは、必ず心のどこかで受けた負債を“他人のせい”にしている。


タイガーマスク
タイガーマスク
悪役レスラー養成機関“虎の穴”出身のレスラー・タイガーマスクこと伊達直人は、孤児だった自分が育った孤児院“ちびっこハウス”の経営難を救う為に組織の掟に背いた事で“虎の穴”の刺客に狙われる。

応援に来たハウスの子供達に正しい生き方を身を持って示す為、反則技を使わない正統派のレスラーとして生きる決意をする。

その最後は少年を交通事故から守ろうとして、犠牲になる。
梶原イズムが感じられる作品である。読むと勇気が出ます。

親が“悪かったから”自分がグレた?
意味不明。

その場合、親が“悪い”と認識出来ているという訳で、それは正常という事。

親が悪かったからこそ、自分は良い人に成ろうと思った。

こういう選択を下せる素晴らしい人も確かに居る訳ですね。

その逆境をはね返した人は必ず立派な人になって社会の頂点に立ちます。

それまでの逆境が大きかった分だけ幸せになるでしょう。環境はとても大事ですが、その環境を整えるのは自分の責任と思います。


2006年7月19日 (水) PM 13:41(大雨)



人間には器というものがあるなと最近良く感じます。

辞書によると“(ある仕事・地位にふさわしい)才能と人格。器量。人物の大きさ。”とありました。

大きさでいえば、器が大きいというのは大器と呼ばれたりします。

未完の大器とかプロ野球とかで良く使いますね。それが“大きさ”ではなく“種類”に関してであれば「彼はそれをこなす器じゃないよ。」など頻繁に使いますよね。

人って特有の賜物があるので、ある場合その人にしか出来ないという事実がありますが、
葛城は器というのは“鍛えて”大きくなるものだとも実は思っていたりする。

色々な経験をすると確かに人間って大きくなる。

大きさというのはある意味、能力と言えなくも無いけど、能力というよりも何だろう?人格になるのかな?

例えばAさんの守備範囲は5とする。しかし、Bさんの守備範囲が10とした場合、BさんにはAさんの状況が分かっている。

しかし、Aさんから見たBさんは全開で5しか反応出来ない為、AさんにはBさんが奇異に見える。

Bさんの考えがAさんに分からないのでAさんの全開でしか判断出来ないがBさんから見たらそれは5でしかない。

何を言っているのか分からなくなってしまいましたが(笑)、器というのはそんなものと思う。

大きい器というのは何処まで行っても底が無い。

比較して小物は、自分の底が見透かされる事を過度に恐れる。
それで小物は、自分の器の底を見せないように虚勢を張ったりする。

しかし、“吼える犬ほど弱い”などいうようにその必死の行動も大きい器にはバレてしまう。平静を装うように見せても、装った平静はやはりバレてしまうだろう。

小物、大物の違いってそんな事かも・・・。と思ってしまう。

前述の言葉でいえば、Aさんの全開は5なのだ。それが彼の限界なのだ。仕方無いではないか。

なのでBさんが、Aさんのような“他人を相手に”勝負をしても、Aさんの上に行く事は無いと思う。

何故ならAさんと“比較する”という事は、実はAさんの土俵で戦っているからだ。


そのお気持ちだけ・・・。
白湯を捨てる力石徹
減量に耐えきれなくなって暴走した力石に渡された白湯を我に返った力石は自ら捨てる。
“あしたのジョー”の伝説の名シーンである。


単純にジョーに勝つという事が彼の課題ではなかったのだ。

むしろジョーを通して自分に勝つという事が彼の課題であった。


そんな力石を丹下段平はこう評する。

「力石は本物ってだけじゃねえ、大物なんだぜ。」

本来の、Bさんのするべき事は自分の守備範囲の10を20や30にする事だろう。

Aさんを批評した所でBさんが成長する事は無い。
ただ、Aさんより勝っていたと“自己満足”するだけだ。

そして10をさらに大きくするには経験を積む事しかないと思う。
そういう訳で自分より大きな器の存在は有り難い存在だ。
その存在から学ぶ事が出来るからだ。

そう考えると誰からも学ぶ事の出来ないトップつまり大きな器というのは、確かにある意味孤独なのかも・・・。

最も大きな器は誰かと付き合う時、どこかで“譲歩”するしかないのだから。

そしてその“譲歩”は裏を返すと器が大きいという印でもある。

何故なら“器が大きい”という言葉は“器が小さい”ものと比較して生まれた言葉だからだ。

小さいものと比べてみて初めて、大きいという事が分かる訳ですね。


2006年6月4日 (日) PM 17:25(晴れ)

謙遜と卑屈

謙遜と卑屈は違います。
謙遜というのは美徳ですが卑屈というのは欠陥ですね。

しかし、卑屈というのは時として謙遜と混同してしまうようです。


卑屈は類字語が 卑しい、臆病、卑怯 なのに対し、

謙遜
は、謙譲、敬譲、謙虚、恭謙、恐縮、恭順、恐懼(きょうく)、卑下、下手(したで)に出る、謙(へりくだ)る、譲る、遠慮する、遠慮深い・・・。

とネットの辞書で調べるとなっていますね。これだけみても違いが明らかなのですが、意外に問題を起こす事が多いのは、この違いを識別出来ない事だったりするようです。

謙遜の反対語は不遜ですね。不遜というのは、“思いあがっていること。おごりたかぶっていること。また、そのさま。”となっています。

ちなみに卑屈の反対語は特別には無いようですが、“豪胆”というのが近いようです。
自分の意見を持っていても、それが通らない事もあります。

でもその意見を持っているか?という点、さらにそれを発言する勇気があるか?という点、さらに相手の意見を理に適うなら受け入れる事が出来るか?という点・・・。

反対に人の顔色を窺うだけか?場の空気を読むだけか?重要なのは協調性だけなのか?問題を起こさない事だけなのか?・・・。

そんな点が違いかも知れません。

会社や組織でも、自分の保身ばかりを考えていては卑屈と言われてしまう結果となるかもしれませんね。

反対に謙遜な人というのは貴重で素晴らしいです。調べていると、こういうことわざがあった!

“卑下も自慢(じまん)の中(うち)”という言葉。

意味は“表面では謙遜していても、実はそれを美徳として自慢しているということ。”・・・。

難しいね。それが日本かも知れませんが・・・。


2006年5月9日 (火) PM 12:28(曇り)

漢(おとこ)
漢と書いておとこと読みます。

男と漢って違うと葛城は思ってます。(私の話はこんなのばっか・・・。汗。勘弁して下さい。)

まあ、男というのは一般に男、つまり男性という事ですよね。

性別は女性と男性のどちらかになる訳ですから、女性でなければ男性となるでしょう。

しかし、私の拘る漢というのは、男性の中でも女が居る事からの発想です。
女っぽい男性って確かに居ますよね。実は葛城もそう言われる事がたまにですけどあります。

どうゆう理由でそう言われるのかというと、以外に筆まめであったりとか、ちょっと感性が繊細というかまあ、そんな感じだからでしょうか?

これは実は自分でも気が付いている点であったりもしますね。

でも音楽やってたり特にギターを弾いていたりすればそうなって当然と自分的には思わなくは無いです。(おかまとかそういう奴らはまた別です。ああいうのは問題外です。)

そういう、いわゆる女的というのは自分的には決して悪いものではないと思っています。

では、前者の男性の中でも女が居るというのはどういう事でしょうか?

まあ、この表現は正確には間違いですね。正確には“男らしくない”という事ですか。
そういう表現は女性蔑視となりますからね。


張良子房


經「下?」(かひ)「?橋」(いきょう)懷張子房
李白
子房未虎嘯
破産不爲家
滄海得壯士
椎秦博浪沙
報韓雖不成
天地皆震動
潛匿遊下?(ひ)
豈曰非智勇
我來?(い)橋上
懷古欽英風
唯見碧流水
曾無黄石公
歎息此人去
蕭條徐泗空

所々の?は中国語の難しい漢字での原文の為表記出来ない為であります。まあ良しとしましょう。
張良 子房 
(丸山應擧筆 『張子房圖』)

前漢時代の漢の軍師。

戦国七雄の一つ韓の宰相の子孫であった。

軍師という知力を使う立場で活躍した人物であるが、若い頃は始皇帝暗殺を企てて失敗した事があるという実は熱い漢。

ある橋で謎の老人、黄石公より兵法書を与えられ、知略を用いるようになった。

張良の容姿は司馬遷曰く「婦人好女の如し」だと言う。

その頭脳から出る策は軍事に留まらず、劉邦の事績のほぼ全ての領域に渡っており、

「張良がいなかったら劉邦は天下を取れなかった。」

と言うのは衆目の一致する所だろう。



張良を詠った李白の漢詩

(下?(かひ)の?橋(いきょう)を経(へ)て張子房(ちょうしぼう)を懐(おも)う)
李白

子房(しぼう) いまだ虎嘯(こしょう)せざりしとき

産(さん)を破(やぶ)りて 家(いえ)を為(おさ)めず

滄海(そうかい)に 壮士(そうし)を得(え)て

秦(しん)を椎(つい)す 博浪沙(はくろうさ)

韓(かん)に報(ほう)ずるは 成(な)らずといえども

天地(てんち) みな震動(しんどう)す

潛匿(せんとく)して 下?(かひ)に遊(あそ)ぶ

豈(あ)に智勇(ちゆう)にあらずと曰(い)わんや

我(われ) ?橋(いきょう)の上(うえ)に来(き)たり

古(いにしえ)を懐(おも)うて英風(えいふう)を欽(した)う

ただ見(み)る 碧流(へきりゅう)の水(みず)

かつて黄石公(こうせきこう)なし

歎息(たんそく)す この人(ひと)去(さ)りて

蕭条(しょうじょう)として 徐泗(じょし)空(むな)しきを



張良がまだ有名で無かった頃、自分の家の事などは省みなかった。

彼は蒼海に屈強な若者を得て、何と!
博浪沙で始皇帝に鉄椎を投げ暗殺を企てたのだ!


祖国韓の為のこの復讐は成功しなかったが、
この張良の心意気には天も地も皆が仰天したのだ!

その後彼は地下に潜り悠々としていた。これを知勇と言わずに何と言おうか。


私は彼に縁のあるこの橋の上に来て、昔を懐い英雄を慕わしく想う。

しかし目の前には青い水が流れるだけで、まさか黄石公が姿を現す筈もない。


張良が去ってからというもの、この除泗(地名)一帯が寂しくなったのを想うと嘆息が出る。

婦人のような容姿など全く関係なく、とんでもない大きな発想とこの度胸!

これは紛れも無く漢だ!素晴らしい!

男らしくない男。これは結構居ます。
単に雑で粗野なだけで男とされる事がよくありますが、あれはおかしい。

誰でも訓練しなければ粗野にしかならないので、粗野つまり粗い(大雑把)と言われる訳で、粗いというのはそんなに誉められたものかな?と。

その昔、戦国時代の武士はその粗く大雑把な気性を正す為に礼儀を重んじ、茶道などによって立ち居振る舞いを正した訳ですからね。

彼らも実は粗野というのがうっとおしかったのでしょう。
しかし、粗野というのは誉められたものでは無いにしろ、まだ男とは呼べる。問題は男らしくない男。

男らしくない男とは何か?正確に定義付ける事は出来ませんが、感覚的にそういう方は良くいらっしゃいますよね?

例えば、部下を見捨てて自分だけが出世したいと考える上司とか、
出世する為に上司にゴマを擦る方とか、実力が無いから虚勢を張って誤魔化す方とか、
ネチネチと人に嫉妬する人とか、
ずーっと根に持つ人とか、
巧言令色で生きる人とか・・・。挙げればキリがありませんが・・・。

そこで漢なのです。調べてみるとこの漢(おとこ)という呼び方は正確には存在しないらしいです。

大食漢とか暴漢とかさらに悪くは痴漢など(笑)漢=おとこで使われる言葉はあっても、漢をおとこと読む事は無いのです。

しかし、無いなら創れば良い訳で、そんな事は問題ではないです。

でも最近巷で漢=おとこという呼び名が使われているという事実は、そういうものが求められている証拠でもあると思います。

男ではなく漢という、男の中のさらなる漢が。

それは男が男で無くなった事の証でもあるのですが・・・。

「自分の信念に生きる!」とか、
「足を挫けば膝で這う!」とか、
「捕れないボールがあるものか!」とか、(後半2つはアニメの歌にある言葉ですが。笑)

そういうのはやっぱり漢で美徳だと葛城は思いますね。大きく生き抜きましょう!


2006年4月15日 (土) AM 2:27(曇り)

無冠の帝王

実力があっても、結果として表れない人を“無冠の帝王”といいます。

無冠の帝王・・・。調べるとジャンルを問わず色々いらっしゃいますね。

実力がある人は結果が必ず伴いますので、無冠の帝王というのは本当は居ないとも言えなくはないのですが、
何かにストイックに拘るなら、人々の記録よりも重要なものを優先させるなら、この称号を得る事になってしまうのかも知れません。


カーロス・リベラ
カーロス・リベラ
白木ジムが呼び寄せた秘密兵器。“ベネズエラの戦慄”そして“無冠の帝王”の異名を持つ。

ランキングこそ世界第6位だが、実力は紛れも無く世界一級。

しかし、生き急いだカーロスはパンチドランカーとなってしまう。

“あしたのジョー”において、力石徹がジョーの兄的な友人であるのに対し、
カーロスは唯一の対等な友人であり理解者である。
中身も外見も物凄く良い男!
(ちなみにマンモス西は弟的な友人。)

葛城はこの“無冠の帝王”というフレーズは結構好きです。

競馬で良くいわれる言葉でもありますが、“記録に残る”よりも“記憶に残る”人間に無冠の帝王は多いですね。何を以って冠とするかは、その人次第という事でしょうか。


2006年4月3日 (月) PM 13:21(晴れ)



人は誰であれ傷付く事を嫌がるものである。
これは紛れも無い事実。

どんな自虐的な人間であっても、人間をはじめ、生物は傷は恐れるものであると思う。
身体的な傷を恐れる事もあれば、心に傷を負う事を恐れるなど、なにしろ傷付く事を好むという事は普通はあり得ません。

以前、私の身近にわざと自分を傷付ける人というのが居たのですが、その方の深層心理を恐れ多くも考えてみるとやはり、
自分を傷付けない為に傷を付けるという事でしたね。(複雑で難しいが・・・。)

確かに傷付くというのは嫌で、辛いですね。
一生人生に残ってしまう傷があったり、二度と同じ思いをしたくないという事の為に“トラウマ”を背負ってしまったりしますからね。

その気持ちはよく分かります。いや、そんな簡単に分かって良いものではないのかも・・・。

結局自分の苦しみを他人が理解するというのは本当の所では“不可能”のような気もしますので・・・。

確かに恐れてしまって仕方の無いものですね。傷は。

しかし、転ばないで歩けるようになる人は存在しないというのも事実。そこが鍵なのかも知れません。

大切にしているギターや単車。本当に大切にして丁寧に扱っているのに、それでも落として塗装が剥げる事がある。
コーナー曲がりきれなくて事故ってしまう事もある。傷が付いた時、物凄いショック!が襲う。

「ああ!!!」となる。


55の傷
私のギターの傷 
(55ブロンドテレの場合)

ちくしょー!何でやー?
塗装にクラックが・・・。
スタンドが不安定だったんですね。そのまま倒れて傷・・・。

「ボケが!能無しギタースタンド作った会社!しっかり作れ!」

と言ってもあとの祭り。

購入して6年になるが他にも無数の傷が・・・。

でもレリックを自分で造っていくというのは、全く傷の無いギターよりも意味のある事とも思う。
最初から傷を付けるレリックは嫌いだが。(意味不明でしょ?レリックって。)

大切にしていればしているほど、傷付く事が怖くなる。

それで結局弾かなくなったり、車庫から出さなかったり・・・。

でも、弾いているから、疾走っているから傷が付く訳で、傷付く事を恐れていたら何も成せない。
磨くだけのコレクターでは意味は無いからですね。

人生も同じと思う。躓(つまづ)かない人間は走っていないんです。

壊すのもコカすのもつまり傷付くのは“走っている証拠”ですね。

傷が増えるというのは確かに嫌な事なのですが、それが愛しく思えるようになるのは不思議です。


2006年3月25日 (土) PM 12:25(晴れ)

良い女とは?

まあ、男だから仕方無いよね。

でも一言。
「あのさー、いい加減にしてくれー!」

というのは、自分には良くこういう事があるんです。

ある女性がいて、その人に親切をする。
そうするとその女性は「私に気があるのかしら」と思うのか何なのか分かりませんが、妙に余所余所しくなる。

普通男だろうと女だろうと、久しぶりに会えば挨拶ぐらいするし、親切にもするよね普通は。

話でも聞いて「へぇ、頑張ってるんだね。」の一言ぐらいは言いたくなるのが、人間関係ってもんでしょ?性別に関係なく。

それをすると、まるで私が犯罪者でもあるかのように防備を固める。

笑っちゃうんだけれども、これって物凄く失礼でまた迷惑!何故って私にも相手を選ぶ権利ぐらいはあるよね。


そこで葛城の考える“良い女講座”じゃ!


良い女というのは、
“場をわきまえて、
直感で
相手の“気持ち”を察する事の出来る女性”をいう。

勿論、相手に対して全くのノーガードで良いという事ではないが、
誰に対してガードして、誰に対して不必要かを瞬時に見分けられる女性、それを良い女というと私は思う。

元々、女性は男の数倍は直感が優れているので、普通に訓練を積んだ女性ならば、容易にそれ位は分かるんじゃないかな?洞察力という奴だね。

まあ、それも訓練が無いと駄目なんだけどね。

勿論、心というものは信用するに足りないものかも知れないけど、ある意味信用関係が無いなら、人間関係は成り立たない。男であれ、女であれです。

他の人の心を疑って色々邪推するのもアリかも知れないけど、“下衆の勘繰り”なら文字通りの下衆って事です。それは。

まあ、ある意味そうやって人の良し悪しが選別されていくんだろうが・・・。

小賢しいジャブの牽制のような“相手の考えを窺う”ような会話ではなく、
“ノーガードからクロスカウンター”のような会話の出来る“良い女”というのは、今まで数えるほどしか居なかったな。
男は沢山居たんですが・・・。(笑)


クロスカウンター
クロスカウンター
相手が左ストレートを打ってきたところに、タイミング良く自分の右ストレートをかぶせて腕をクロスさせることでテコの原理を応用し、
さらに相手の突進力を利用する事によって、通常のストレートよりも4倍の破壊力を生むという
“肉を斬らせて骨を断つ”必殺技!

ノーガードからのクロスは矢吹丈の必殺技である。


葛城は格闘技は嫌いであるが、昔の漫画の持つあの“闘魂精神”だけは結構好みだったりする・・・。
腑抜けよりは良い!

・・・・・・。無理かな?(笑)
いや、只の社交辞令しか出来ないような人なら不要だよね、やはり。


2006年3月6日 (月) PM 12:19(晴れ)

世界

“住む世界が違う。”という表現をよく使いますが、世界が違うというのは本当に存在するな・・・。と最近よく感じますね。

どういう時にそう感じるかといえば、
自分の求めるものと対象となる人物、またはその比較する人の存在する環境があまりにも自分と違う時にそう感じるのでしょう。

人って自分と全く同じ環境で生きている訳ではないので、親兄弟であっても“世界が違う”というのは当然ありますよね。

幸せというものの形も人それぞれに違っていて当たり前で、それぞれ求めるものも当然違うでしょう。

細く長く生きるのが幸せと考える方も居られれば、太く短く生きるのが幸せと考える方も居られるでしょう。
(太く長くというのは一番良いけど・・・。)

世界観の違いは、そこに住む者にしか理解出来ないかも知れません。

さらに世界を限定して拘るなら、自分にしか解からない世界というのもあると思います。

その世界は他人に理解されない世界である為、その世界の住人で在ろうとする為に、人との関係が面倒臭くなって、自分の世界に篭もる。それを“引き篭もり”というのでは?と葛城は思います。


木枯らし紋次郎
木枯らし紋次郎
これは色々な役者さんが演じている時代劇ですね。
このジャケットは1972年の菅原文太さんの演じた紋次郎です。
しかし、何てネガティブな映画なんだ!(笑)

70年代の物ってどうしてこんなのが多いのか?ヤクザ映画最盛期で、これもその流れを汲んだ物でしょうね・・・。

ヤクザに憧れるように洗脳していたのか、何なのか知りませんが、

ヤクザって物凄く悲惨ですけどね・・・。


木枯らし紋次郎ではないですが、
「あっしには関わりの無ぇ事で・・・。」と生きるのも可能でしょう。
しかし、紋次郎はそう言いながらもいろんな人と“関係”していたからこそ、木枯らし紋次郎という時代劇が成り立っている訳です。

「あっしには関わりの無ぇ事で・・・。」といって全部シカトして無視して旅にでるなら、只のへたれです。
“さっさとくたばれ!”という事でしょう。(笑)

自分の大切とする世界を守りながらも、世界観は大きく広げなければ、到底大きな人間にはなり得ません。
そして、自分一人で生きていくと言っても、そう簡単に一人にしてくれないのが世の中です。

自分の今居るその世界が、“尻尾を丸めて逃げてきた結果で”存在している世界なら、そんな世界は価値の無いものでしょう。

人間はどんなに逃げても責任というものからは逃げる事は出来ず、自分が逃げたという現実から逃げる事は出来ないからです。

世界っていろいろありますが、“その程度の”世界なのか?それとも“素晴らしい”世界なのか?を本当に知っているのは自分自身です。


2006年2月12日 (日) PM 12:58(晴れ)

泪橋

「この橋はな、人呼んで泪橋という。曰く人生に敗れ、生活に疲れ果ててこのドヤ街に流れてきた人間たちがなみだで渡る悲しい橋だからよ・・・。
だが今度はわしとお前とでこの泪橋を逆に渡り、あしたの栄光を目指して第一歩を踏み出したいと思う。」

“あしたのジョー”より 丹下段平の言葉抜粋

今回の関東滞在で是非行っておきたかった場所の一つにこの“泪橋”がある。

自分は目黒に住んでいる時は全くと言って良いほど、東京のいわゆる京葉地区に関心が無かったのですが、福岡に移り住んで、何故か東京の下町が恋しくなる。葛飾柴又しかり・・・。

しかし、隅田川沿線のこの京葉地帯でもこの泪橋近辺だけは“異質”な空気を持つ。それは、誉められるべき、愛されるべき、楽しく良い街ではないが、決して忘れる事の出来ない街でもあると思う。


泪橋の交差点の看板 泪橋の歩道橋
泪橋交差点
幾多の涙を見守ってきたこの地・・・。

段平オヤジの語る泪橋の由来は、無縁ではないとは思うが一応は誤りのようですね。

泪橋歩道橋
橋は今では歩道橋しかない。地下にかつての“思川”が流れているのだろうか・・・。

便宜上埋め立てたのか、それとも“思いの流れ”を覆ってしまいたかったのか・・・。

街の空気というのは大変面白く、大阪なら大阪らしい、横浜なら横浜らしい空気があるものです。それが地方の気質を生み、異質な感覚だからこそ新鮮でそこを訪れる事に快感を生むのでしょう。

しかし、この泪橋ドヤ街に関しては・・・。
関心のある方は
宮下忠子“思川 ”をお読みになってみて下さい。

人生には決して開けてはいけない“パンドラの箱”のようなものがあると思っています。ただ、それは真実だからこそ開けてはいけないのですね。あまりにもリアルであるが故に・・・。

人はそれを避け、忘れて、逃げ、見ない・・・。自らの力で解決出来るほど、慰めや励ましで励まされるほどの“小さな問題”ではなく、とてつもなく大きい問題・・・。それに直面した時、私は何も言えない。

人間の社会が自ら創り招いた“負の領域”は当然、人間自身で解決する事は不可能だからだ。
かつてBLUE HEARTSはこう歌った。


「ドブネズミみたいに美しくなりたい。写真には写らない美しさがあるから・・・。」

写真に写らない、記録に残らない、忘れられた真実・・・。
果たして、私にそれを見届ける事が出来るだろうか・・・。

2006年2月3日 (金) PM 14:22(晴れ)





正月になって葛城が思い出すのが“男はつらいよ”である。

昭和を代表する不変の大スターとしてまず挙げられるのは石原裕次郎さんでありますが、もう一人挙げろと言われれば葛城的には、やはりこの寅さんである。

渥美清さんが、寅さんのようであったかどうかそんな事は知りませんが、幼い時から“男はつらいよ”を観て育った葛城はかなり寅次郎の影響を受けているように感じます。
(良いやら悪いやら・・・。)


車 寅次郎
雨の中の 車寅次郎
寅次郎の言葉 
(第24作目寅次郎春の夢より)

「アメリカ人はよ、お互いの気持ちを察するって言うのは苦手なんだ。ハッキリ口に出して言わなきゃ納得しないんだ。
俺たちみたいに、想いを胸に秘めてスッと立ち去る・・・。
そんな芸当は
とても出来やしないんだ。

だから、な、勘弁してやれよ。」

寅次郎の何が良いのか全く分からないという方も多くいらっしゃいますし、実際あんな男が家族の中に居るならそれは大迷惑という一言でしょうね。

しかし、ただの迷惑な人というのではなく、何というか日本的な“粋”を持ち合わせているのも確かと思います。

“粋”っていうのは結構重要と葛城は思います。これが無いと単純に“野暮”と言われますね。

昔に読んだ池波正太郎さんの本の中にも“粋”について語っている一文がありましたが、確かに鬼平こと長谷川平蔵も物凄く“粋”ですよね。

昨今はカッコ良いものとして横文字的な物が幅を利かせる時代ですが、葛城はどうしてもこの“粋”という日本的な物に惹かれてしまうんだなー。これがカッコ良い!

実際には1円にも成らないこの特質。でも粋な人というのは確かに面白いです。“江戸っ子”なんていう言葉は今や死後となってしまったようですが、わからんかなーこの良さが・・・。


2006年1月2日 (月) PM 15:42(曇り)


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