2007年のThought


人間

今年最後の能書きは、大きく出て“人間”というものの存在についてである。

などと書いても、偉そうに何が分かるか?という訳で。

私は立派な人間ではないし、人についての理解も年相応にしか無いでしょうが、
客観的に人間について思うことはありますので、それを課題にしようと。

年の終わりという事もあり、芸能人が結婚したとか、別れたとか、色々聞きます。
芸能人でなくてもそういう事は在る訳ですが、芸能人が結婚、離婚するというのは何故か話題になりますね。

面白可笑しく採り上げるメディアの影響もあるのでしょう。
人の恋愛や結婚は当事者にしか分からないので、他人が語っても仕方ないのですが、しかしそういう方々、つまり普通の生活を送らないであろう方々の結婚離婚は、何故か妙な違和感があるように考えるのは私だけでしょうか?

人と違ったペースでの人生を送るという事は、一般的な普通の幸せというものの追求と次元の異なる事のように思います。

無論、その世界で生きていくというのは、いや、その世界で頂点に君臨するというのは犠牲も大きいのでしょう。

しかし、彼らが本来求めていたものは何だったのかな?と、

いや本来人間が求めるものとは、実はそんなに華やかなものではなく、もっと泥臭いものなのかな?と、そういうニュースを聞くと思ってしまいます。

別にセレブにならなくても、日常のちょっとした事、懸賞が当たったり、行ったラーメン屋が美味しかったり、子供の笑顔が嬉しかったり・・・。そんなんで良いんじゃないかな?と思いますね。

人というのは実は大したもんじゃない。大きくものを考えるなら、人というのは何と小さな存在だろうと思います。


アレクサンドロス三世
ギリシャの
アレクサンドロス大王

インドのある賢人の言葉
「アレクサンドロス王よ,人間一人が所有する土地は,このとおり,我らが今立つ広さのものでございます。

あなた様はしごく活発なお方で,何事も容赦せず,故国を遠く離れてこの世界をくまなく歩き回られました。

しかしその点を別にすれば,あなた様も他の人間と同じく,ご自分を苦しめ,他の人を苦しめてきたのでございます。

ですが,まもなくあなた様の命は尽き,所有するものと言えば,
埋葬に足る土地のみとなるのです」。
世界の覇者も32歳8か月という若さで,
最も恐ろしい敵である死に打ち負かされた。

世界制覇はやろうと思って出来る事ではないから凄い事なのだけどね。

幸せという事の定義は人様々で、色々あって良い訳ですが、本当に人間に必要なものというのは、実はそんなに多くは無いのではないか?

それは求めたものが“幸せ”であるなら、という事ですがね。

しかし人間は幸せばかりを求めるとは限らない。そんなところが不思議ですよね。

幸せに成りたいという点を否定する人は居ない訳で、産まれた時から自殺したいと考える人は居ないでしょう。
産まれた時から犯罪者に成りたいと思う人も居ないと思います。

ですが、色々な歯車が面倒になってそういう事になるのでしょうが、歯車がシンプルであれば問題も減る。

・・・まあ、シンプルすぎるのも、「お前何やってんだ?」という事になりますから、どうかとも思いますがね。(笑)

良くドラマや歌の歌詞にありますが、“足元にこそ幸せが在る”というのは、あながち嘘ではないかもしれませんね。

正確には、“そんな遠くに幸せは無い”となるのかな?

人間というものの存在は、所詮、物凄く泥臭いものと思います。
憧れるのは華やかな世界かもしれませんが、人間なんて大したもんじゃありません。

来年もそんなに大それた事ではなく、(まあ時々ブチかますのも面白いんですがね。)ちょっとした喜びを積み重ねられるような一年だったら良いなと思いました。


2007年12月31日 (月) PM 19:38(吹雪)

思慮深さ

さて、今回の能書きは思慮深さ。

思慮深いというのは何か?一言で言うなら“深く考える”という事。
動物と比較しても仕方ないかも知れませんが、人というのは良く考える生き物であると思います。

「人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である」とは、有名なパスカルの言。

勿論、人間を、これこれこうであると簡単に定義付ける事などは出来ませんけどね。

余談ですが、人間を定義付けて考えるという事では、こういう事例もあります。

定義付けの好きなソクラテスの弟子のプラトンが、“二本足の裸の動物が人間である”と定義した時、ディオゲネスは死んだ鶏の毛をむしり、

「これがプラトンの言う人間だ」と語ったとの事。

プラトンは自分の定義を恥じる事になりました。(ディオゲネス・ラエルティオス「ギリシア哲学者列伝」より。)

ただ二本足の裸の動物である事だけが人間である訳は無いですよね。
簡単に定義を付けるのもどうなのでしょう・・・。

しかし、あえて一つ挙げるなら、動物と人間の差とは、パスカルの言うように、その一つは“思考”にあるのかも知れません。(無論それだけでは無いですが。障害などの為、思考の無い方も当然の事ながら人間ですので。)

思慮深いというのは、“思考”という点のさらに上を行き、“深く”考える訳です。深く考える事によって、それが将来的にどうなるか?とか、本当に適任か?とか、無駄が無いか?など、時間を掛けないと出ない答えが事前に分かったりする訳です。

思慮分別があるというのは、人間にとって確かに素晴らしい事だと思います。それが無いなら正しい決定を事前に下す事は不可能でしょう。

思慮深さ、それは確かに良いものです。
しかし・・・。しかし、こと人間の魅力を語る場合、“思慮深い人”というだけでは、何かが足りないとは思いませんか?

恐らく人は何かを選択する時、最も思慮深くなるでしょう。進路であれ、買い物であれ、交際する人を選ぶ場合であれ、選ぶ前には深く考えます。それが自分の将来に影響を及ぼす訳ですから当然でしょう。

何度も繰り返すように、思慮深い事は重要です。ですが、思慮深かったから、それが賢い決定であるとは限りません。時に人は思慮深く無い事で、感動するものです。


アイオリア
黄金聖闘士 
レオのアイオリア


アイオリア
「なっ・・・何故邪魔をする。放せ!!」


ムウ
「シャカの死にはもっと深い意味が・・・」
 

アイオリア
「お前のセリフは聞き飽きた。思慮深い事は結構だ・・・。
しかし目の前で同胞が殺されているのを見て、何の行動も起こせないような奴は・・・もはや男として認めん!!」


そして影響を受けたムウは、ミロと共に暴挙に出る事になる・・・。

2001年1月26日、JR 新大久保駅で、線路に落ちた男性(37)と男性を助けようとしてホームに飛び降りた韓国人留学生李秀賢さん(26)とカメラマン関根史郎(47)さんの3人が電車にはねられて亡くなった事故がありました。

私は2001年後半は新大久保に住んでいましたので、印象に残る事件でしたね。落ちた人も、助けようとした人も亡くなった訳ですから、結果的には残念でした・・・。

結果的に思慮深い行動だったのか?と言えば、そうは言えないでしょう。しかし、咄嗟に体が動いた。何故か?人より勇気があったのか?人より優しかったのだろうか?・・・。

私の察する答えは“彼らは、そんな事は考えなかった”だと思います。“それが、どうなるか?”“自分に出来るか?”などいちいち考えて行動しない・・・。

ですが、その“考えなかった行為”が、何と潔く美しいのだろう。

人は決して思慮深い事だけでどうなるものではないと思います。

思慮深さに似て非なるものとして、“腹黒い”というのがありますが、それは論外。

知っていて言わないとか、水面下でコソコソする、打算的であるなどとかいうのは、思慮深いという高尚な事ではなく、それは単純に下卑た人間という事。それを狡猾とも言う。したたかとも表現出来るかも知れない。

何が違うのか?
一言で言うなら“考える事の質”が違う。そういう人は嫌われるだけですし、それで当然。私もそういう人は嫌いです。

腹黒い人に言う事があるとすれば、人は駒ではない。感情のある人間であるという事かな?

本当に思慮深い人は、そこも考える事でしょう。いや、そこを最も重要視して思慮深く行動するでしょう。

しかし、実は思慮深さを超越した行動こそが、自分の本当の姿なのだろうと思います。


2007年11月7日 (水) PM 16:47(晴れ)

世界A

あなたの行ってみたい国は?という問い。
おそらくどんな人でも一度は受けた事のある問いだと思います。

実際、今でも観光や旅行ビジネスは衰えたとはいえまだまだ人気がありますよね。
外国に行きたいという願い、何故人はそれを持つのでしょうか?

日本には無い文化や風習、そして習慣などを感じたいからなのでしょうか?

何れにせよ、日本に無い物に触れたいのでしょう。好奇心旺盛なのはとても良い事と思います。

日本の人口は一億三千万人です。そして世界には六十億人の人が住んでいる訳です。

という事は日本の常識が通用するのは、単純に60分の1という事な訳で、
私たちの知っている常識以外の色々な考え方やしきたりがある事でしょう。

世界の中心地はどこか?経済の中心地はアメリカのニューヨークであったりするかもしれませんが、歴史を考えるならば、世界の中心はイラクやイラン、イスラエルといった地でしょう。

日本の歴史は約二千年、中国は三千年、インドは五千年、しかし、アラブ諸国は六千年の歴史があると言われています。

そのような遺跡などの歴史があるという事実は、人が古くから存在していた証拠な訳で、中心地から人が派生したと考えるならば、日本はやはり“極東”つまり東の端というのが妥当な考えでしょう。

サラリーマン金太郎の中にもありましたが、“日本人が新しい地を求めて東へ自ら旅立ったとするなら、勇気のある民族だが、残念ながら住む場所を追われ東に辿り着いたのだろう。”という説、私は正しいと思います。

どう見てもやはり日本は“東の果て”ですもんね。しかも島国。

イスラエルやアラブは、諸国との交渉が物凄く巧みなのに、日本は稚拙と思います。

分かりやすくいうなら、中東は喧嘩慣れしている。土地続きの国々な為、幾多の攻防があった訳で日本などとは経験値が違う。

かつてヒトラーは日独伊三国同盟に応じた日本への賛美として「過去一度も戦争に負けた事の無いこの日本が我々の同盟国となったのである!よってわれらの勝利間違い無し!」

みたいな事を演説で語っていたらしいですが、正確には日本は東の端だから、誰にも相手にされなかったというのが正解ではないかな?

まあ、そんな事はどうでも良いのですが、旅行に行きたい所はどこですか?と尋ねた場合、上位に来るのは欧州であったり、アメリカなのでしょうが、葛城が刺激されるのは、そういう訳で歴史の豊富なイラクですね。

イラクでなくても中東には物凄く興味があります。いわゆるキリスト教文化圏ではなく、イスラム文化圏。

中国も面白いと思うのですが、個人的にはイスラムの魅力ほどではありません。

アラブ諸国の特徴として、最も他と違う点はやはり宗教的な概念でしょう。インドの人々も宗教的なお話が好きとお聞きしますが、アラブ諸国と最も異なっている点は一神教か多神教かの違いでしょう。


幾何学
ペルシャ絨毯
何故ペルシャの絨毯が良い物なのか?

一神教文化のアラブでは、偶像を創る事を非とした為、幾何学模様のような像でない模様の文化が発達しました。

数学的な幾何学の美しさ。これがペルシャ絨毯の素晴らしさの一つです。

日本は神道や仏教がバックボーンですが、多神教の文化の国です。

しかし、アラブは唯一神の文化。これだけで差が出ますよね。

日本と比較して、精神が寛容ではないとか、色々否定する人もいますが、果たしてそうかな?長い歴史を持っているのはあちらですよ。

郷に入らば郷に従え。日本のことわざですが、何故その土地の習慣がそうなったのか?という点を考えると、面白いですね。

日本の習慣は所詮60分の1です。


2007年10月18日 (木) PM 12:36(晴れ)

過去

人は過去に何をやったかで評価される生き物です。

過去に練習を積んでいたなら、今は練習した課題に対していくらかの克服があるのではないかな?と思います。

スポーツ選手やミュージシャンが、鍛え上げた技術を発揮できるのは過去に何かを行っていたからです。

それは技術ではなくても、お金や愛情や知識など、何にでも当てはまりますよね。

人間が、過去を変えるというのはいうまでも無く不可能です。過去を良いものにしたいと思うなら、
現在をどう考え、どう生きるか?という事と思います。

未来というのは時の経過により、過去になるというのが現実ですね。しかし、今を生きるという事実。これは意外に難しい。

人はどうしても過去を引きずる傾向があるからです。

今まで蓄積した考え方や習慣は、(それは過去といえる訳ですが)現在に影響を与える訳で、将来を良くしたいなら、もしも今まで行って蓄積したものが悪い習慣や考え方なら、一度決別しないと今を、そして将来を変える事は難しいという事になります。

バブルの時代を経験された方ならばその時代が如何に金銭的に恵まれていたかを語ってくださるでしょう。

しかし、今はそんな時代ではないですよね。芸能人で身を持ち崩す人が多かったりするのも、過去を忘れられない人に多いようですね。


アリとキリギリス
アリとキリギリス 
イソップ物語
 

(にいるぶっくす すまいるママめいさくステッチ)

ほのぼのとしているが、実はこんな恐ろしい話は他に無いのだ!

しかし、恐ろしいと考えるか妥当と考えるか、最初にどちらが来るかという吟味で、今が判別出来るという事なのかも知れない・・・。




過去に行った嫌な事や不快な対人関係なども、将来に影響を与えますね。

いつまでも嫌な人の事を考えるのではなく、一度忘れて新たな気持ちでお付き合いするのも大切な点と思います。

勿論自分が割り切っていても、相手がどう思うかは分かりませんがね。

という訳で、忘れるというのは素晴らしい事でもあると思います。

精神病になってしまう人の大半は“忘れる事が出来ない”というのが理由になる事も多いそうです。

無論、無責任というのは良くありませんが、拘る点が幸せに成らない考えであるなら、そんなものはさっさと捨てて、前に行きましょう。

結局、今を懸命に生きる事しか、人は行えないからです。色んな問題を時が解決するというのは確かにあります。
それは今、何を行うか?で大きく変わると思っています。


2007年8月30日 (木) PM 13:52(雨)

質問

職業がら、質問を多く受けます。

質問というのは疑問があって行なう事と葛城は思います。疑問を抱く、つまり“考える”というのはとても良い事と思います。

私の友人のあるおじさまは考えもせずに、話も聞かないで「分からん分からん」というおばあさんに対し関西弁で

「そないに分からん分からん言うとったらな、ホンマに何も分からんようになってまうで!いくら分からん思ってもな、同じ人間が喋っとるんやさかい、よう聞いて考えなあかんで!」

とおっしゃっておられました。
おばあさんはかなりの高齢の方でしたが、正直私も彼の意見に賛成でした。

人間というのは面倒臭くなると、精神的な意味や思考の点で怠惰になり、考えない。

勿論、考えすぎて失敗する事もありますが、疑問を抱くというのは何かを探求しようと思っている事の表われと思うので大切な事では?

繰り返しになりますが、疑問を抱くので人は質問をする。ですので質問するというのは大切だなと思います。それが関心の高さを物語るからです。

しかし、質問というのは場合によっては厄介な物でもある。例えば、“相手の見解を知る質問”これを“連発する”人間が稀に居られます。

その昔、私が自動車教習所に通っている時、何故か親しくなったある人と教習の空き時間に昼飯を食べる事になりました。(自動車教習所というのは何故かそうなるんですよね。)

とある中華料理屋に行き、二人ともラーメンを注文。そして私と同伴した彼は「炒飯を!」と追加注文。

そして彼は語る。「その店の良さを見極めたかったら、炒飯を食べてみれば分かる。」と、殺気を出しながら炒飯を食べる・・・。(確か、“美味しんぼ”に同じような事が書いてありましたね。)


美味しんぼ
美味しんぼ
言わずとしれたグルメ漫画の代表作である。

しかし、個人的には正直“ウザい”!
アンキモとフォアグラを比べてどうするんじゃ!海原雄山!おのれが一番小物臭ぇんじゃ!


食い物の事でいちいちガタガタぬかすな!食い物の基本は
「俺とお前と大五郎!」以上!

しかし、思った。
「私は別にその中華料理屋の味に興味が有る訳では無い。何でも良いじゃん。そういう状況の時は味なんか。」と。

仮に、その中華料理屋が美味かろうが不味かろうが、“そういう状況で”何でそれが問題になるのかな?と不思議に思いました。

探る、つまり何かを知りたいと思う気持ちを持つ、つまり探求するというのは、良い事だと思いますが、当然、状況があるなと考えさせられました。

人と接していても、それと同じような事があります。

ある人は、自分が知りたいが為に、相手の見解を探る質問を連発する訳です。
しかし、人間は探ったり、眼を凝らして見てみなくても分かるものは分かります。言い換えれば分かる人には分かるのです。

質問を連発したり、眼を凝らして見てみる事により弊害も生まれます。

そういうタイプは相手の見解を知り、“自分だけ”の頭の中で分析した上で人を判断するという訳ですが、“自分の頭の中で理解出来ない人”というのを、どのように処理するのでしょうか?

一言で言えばそういうタイプは“小さい”。そして信用されません。

質問は向上する上でとても大切です。しかし、何の為にその質問で得た答えを使うのでしょうか?それはもっと大切な事と葛城は考えます。

常に刀の柄を握って、“相手をどう斬ろうか?相手の攻撃をどう受け流そうか?”と考えている人間が理解を得る事は無いでしょう。


2007年7月14日 (土) PM 18:24(台風)

立場

葛城は、普通の人間じゃない?のであまり立場的なものは気にならない。これが良いのか?悪いのか?

男は30歳までに結婚してとか、仕事でも一定の地位を得てなど、色々言われますよね。

会社勤めな方なら、何歳までに課長であるとか、そういうのってあるのかな?あんまり良く分かりませんが。

勿論、5年、10年周期で何かを考えるっていうのは良い事と思います。何を自分は成し遂げたかな?と考えると自分も時に恐ろしくなりますね。

これで良いのか?と、自分は終始悩んできたような気もします。

立場ってありますよね。いわゆる社会的な立場って奴です。これが立派だと、魅力的という事になるのかな?

「彼は、将来性があるね。」なーんて言われて、異性にもてもてという事になるのかな?

しかし、立場を気にして身動きが取れないといった事もあります。

テレビドラマに良くあるけど
「君は一時の気持ち良さの為に、将来を棒に振るのか?」と、

そういうセリフは立場と感情を秤にかける時に使う言葉。

立場というのは凄いね。これを守ろうと人は必死になる。まあ、自分に守るものが多いという人は、自分も守りに入って生活を安定させて当たり前と思います。

でも、時々考えたいのは、立場と自分のどちらが大切か?という点でしょうか?

立場あっての自分なのか?それとも、自分が立場を生かすのか?そんな事かも知れません。

人はそれぞれに立場があって、ある人は父親として、ある人は夫としての立場があります。会社の社長さんが居られたり、まあ、色々あるでしょう。

当然夫には夫の、父親には父親の、社長には社長の立場ゆえの責任ってありますよね。立場が人を創るという事も確かに言えますし、その立場にしがみ付くという人も確かに居ます。

しかし、自分を捨ててまで、立場にしがみ付く必要って本当にあるのかな?

嫌になって辞めるという事とは違って、本来自分が大切にしなければならないものを捨ててまで立場に執着する必要は無いと、葛城は思います。


廬山亢龍覇
ドラゴン紫龍 最大の奥義
廬山亢龍覇!

黄金聖闘士シュラに対して、真の聖闘士としての生き様を示した紫龍。
彼にとって守るべきものとは、立場がどうのという事ではなく、むしろ生き様であった。


「この紫龍、
死はもとより覚悟の上!」

葛城も今まで、白を黒と言わざるを得ない時もありました。
でも、やはり白は決して黒ではない。

考え方が誤っていて、白を黒と言ってしまう事があったとしても、自分の心を欺いて白を黒と言ってしまうのは、やはり後味の悪いものですね。

白を白、黒を黒と言える潔い人間は結局の所、最後に何かが支えてくれるものと葛城は考えます。

守るというのは立場よりもっと大きな何かなのでは?と。・・・まあ、言うのは簡単だけどな。


2007年6月4日 (月) AM 11:46(曇り)

アウトロー

ROCKや単車といえば、アウトロー的な魅力があるといわれます。勿論私も単車やROCKなど嫌いではありません。


ですが、アウトロー・・・。これは正直、あんまり好きではありません。私がそういう事を言うのは意外と思われるかも知れませんが、断言します。アウトローとは所詮、“外角低め”でしかありません。

最も強い人間とは、アウトローではありません。“ド真ん中に直球を投げても打たれない人間”これが最も強い人間です。

アウトロー的なものといえば何があるでしょうか?不良であるとか、暴走族であるとか、ヤクザであるとか、博打打ちとか、極悪何々とか、喧嘩無敗とか・・・。全然良くありません。

アウトロー的なものはカッコ良いと思われますが、実際にやってみれば分かりますが現実には“悲惨”の一言です。当然、憧れるものではありません。

良く巷で言われる言葉に「殺すぞ!」という脅し文句があります。まあ、「殺すぞ!」とまではいかなくても「殴るぞ!」などはよく聞きますよね。

ですが、玄人はそんな無駄な事は言いません。何故なら発言するより実行に移す方が先だからです。

「殴るぞ!」ではなく、「殴ったぞ。」であり、後はそれがより過激にエスカレートしていくだけだからです。


新宿歌舞伎町に私が居た時、自分の武勇伝を自慢げに話す男が新入りでやってきました。

「高校で何々して、鑑別所がなんとかで・・・。」とアウトロー的な話をしていましたが、それを聴く側の皆としては一言、

「それで?」

で終わりです。


結局その新入りは一週間で摘み出されました。

その理由が面白いのですが、“だらしない”という理由でした。

歌舞伎町のような場所では意外かもしれませんが、だらしない人間は生きていけません。

きまりを守るとか、行動力があるなど、いわゆる“実力”が無ければダメなのです。歌舞伎町に遊びに来る人間はだらしないかも知れません。

しかし、迎え撃つ側は“問答無用な実力”が無ければダメです。


逆に学歴などの位もあまり意味がありません。ですので、本当に実力のある人間にとっては、そういう意味では面白い街でもあります。

求められるのは“実行力”であり、それは見る人が一目見れば分かるので、武勇伝のようなハッタリはうっとおしいだけなのです。

アウトロー的な人は普通の人には恐れられるのですが、アウトロー同士では話は別です。常に結果的に喧嘩をして生きることになるアウトローにとって、揉め事は、本当にもう“うんざり”なのです。

ですので揉め事を抑えられる話の解かる性格の持ち主、つまり結局は“人格者”でなければその世界では、特に上位ランクでは生きていけないのです。


ですので、アウトローをまとめておられる方というのは、意外ですが、大抵“実力のある人格者”であられます。

筋を通すとは、実は揉め事の多い環境に居る人間にこそ求められる特質という訳です。
筋の通らない事にはみんなが従わないからです。メンツの問題なども同じです。それがいわゆる義です。


そうすると、結局はアウトローではないという人が強いという事になります。

それがどんな人間であったとしても、普通に人間として付き合える人が強いです。それがいわゆる仁です。(今は昔ほど仁義に拘らないかも知れませんね。)


冒頭で述べましたように、“ド真ん中に直球を投げても打たれない人間”とはそういう人間です。

知り合いに三代続いたヤクザという人が居られます。祖父も父もヤクザさんで、本人は博多弁でこう語ります。

「何とかして辞めたかですが、この環境ではどうしようもなかですよ。他に生きる術を知らんです。」
と大きな体を丸めてうつむきかげんに話してました。


本人も家庭を持ち、子供さんも居られますが、やはり幸せとは程遠い歩みをされていますね。

何とかして、辞めるように私の友人の土建屋の社長さんが仕事の斡旋をしたり、説得したりして、面倒をみて居られるのですが、やはり環境とは難しい問題ですね。

彼の願いは、家族が幸福である事、子供や奥さんが幸せになる事である訳ですが・・・。

暴力や悪で自分が幸せになる事は決してありません。それがカッコ良いと思っているというのは、まだ余力がある証拠です。

喧嘩が強くても実際には、何にもなりません。人を殴れば自分も誰かに殴られる。そして殴られて嬉しいと思う人間は何処にも居ません。


それぞれにいろんな事情がありますが、アウトでローなものというのは、真ん中ではないので、面白いとも言えますが、それをやっている本人は実に大変です。
真ん中を基準に考えるからアウトローは外れるという表現になる訳ですがやはり、真ん中が良い訳です。

ちなみに
アウトローとは、本来、無法者(outlaw)の事であり、野球用語での外角低め(out low)、は意味が異なりますよ。(笑)

断言します。不良が良いという事はありません。カッコ良いと思うなら、それはまだまだです。

本当に強い人間とは真ん中を歩む人間です。


2007年5月10日 (木) AM 2:13(雨)

情報

このThoughtの欄を記入し始めて足掛け3年になります。

まあ、よくも、色々と能書きを記入しましたね。(笑)

自分で振り返って読んでみると、その時その時で、色々と考えている自分が居たんだなと、参考にもなります。

こういう能書きを読んで下さっている方々は葛城というのは“めんどくさい”奴だな。と思われるかも知れませんね。

でも、私は普段、常にこんな事ばかり言っている訳ではないですよ。勿論、常に何かを考え、思う事はありますけどね。

しかし、これは私がどういう奴かという事をお知らせする欄とも思うので、能書きは出来るだけあった方が良い訳です。

能書きが無いならこの欄の意味は無いですし、嫌なら読まなきゃ良いので。

そういう意味でインターネットのサイトというのは便利ですよね。自分にとって必要な情報を直ぐに仕入れる事が出来、またお知らせする事が出来るのですから。

さて、今回の項目はこの“情報”です。
昔は、何でも情報を仕入れる事が偉いとされていました。何でも知っているというのが素晴らしい事だと・・・。

しかし、時代も変わりました。今は情報が曲者ではないかな?と葛城は思ったりもします。

それが、100%真実な情報ならば良いのですが、嘘も多いですよね。(笑)例の“あるある大事典の納豆事件”ではないですが、情報に翻弄された時ほど人間虚しいものはありません。

今思うと、それが納豆ごときで良かったですよね。大昔はプロパガンダ(洗脳)によって大陸侵略を行なったり、平気で人を殺したりといった事が行なわれてきたのは、情報の誤用の結果と言えます。

近年ではイラクの大量破壊兵器の問題がありますね。それが存在するという事で始めたアメリカのイラク侵攻でしたが・・・。大量破壊兵器など無かったらしい。

侵略の口実以外の何物でも無いですよね。そんな情報に振り回されて、何人の人が死んでいったのだろうか。偽りの情報こそが大量破壊兵器じゃないか!と葛城は思います。

ニュースなどでも“誰々が殺された”“何かの不正”など、知って気分が悪くなるものも多いです。しかも、新聞も、テレビも“偏り”がある。

近年“うつ病”が多いのは情報が多いからだと葛城は思っています。

自分の中にある情報処理能力を越えた情報が集まってしまい、オーバーフローする訳ですね。

考えてみますと、情報が多いというのは“選択肢”と共に“迷い”が多くなるのも事実ではないでしょうか?

悩んで、迷う・・・。
でも決断するという事は、実は“情報を元に悩んで行なう”のではないと葛城は思います。


モーツァルト
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
Wolfgang Amadeus Mozart
(1756-1791)

オーストリア・ザルツブルク生まれの作曲家、ピアニスト、指揮者。

ハイドン、ベートーヴェンと並ぶウィーン古典派3巨匠の一人。


5歳にして最初の作曲をしたとされる。35歳の時、ウィーンでレクイエムの作曲中に死去。作品総数は700曲を超える。

名言


「私は人の賞賛や非難をまったく気に留めない。
ただ
自分の感じるままに行うんだ。」


さすが天才!でもこの言葉は理に適いますよね。

結局、何時の時代も最後に残るのは真実の情報だけで、真実の情報ってそんなに数は多くないです。

真実の情報というのは、それに従った時に必ず何らかの“良い結果”を残しますので。

坂本龍馬は
「世の中の 人は何とも 云えば云え。我が成す事は 我のみぞ知る。」
と語りましたが、結局そういう、他人の情報に左右されないで行動できる人間が強いと思いますね。

勿論、情報を集める能力も大切ですが、情報を“行動する為に”選択する能力はさらに重要です。


2007年3月16日 (金) PM 21:11(晴れ)

対等と平等

“全ての人間は、平等に創られている。”

これは、アメリカの独立宣言の中の文章でも最も有名な言葉であると思います。

言うまでも無くそう思います。なので、人種差別や、家柄や格式による差別というのは有り得ない事だと、葛城は思います。

しかし、平等であるという点には、落とし穴があるのも事実と思っています。

それは、平等であるというのは“対等である”という意味ではないという点です。

一例を挙げると、昔に比べて子供が生意気になったと言われます。

何が原因なのでしょうか?まあ、色々な要因があると思うのですが、原因の一つにこの、平等と対等の履き違えがあると思っています。


ハリス
タウンゼント・ハリス Townsend Harris
(1804年10月3日 - 1878年2月25日)は、アメリカ合衆国の外交官である。民主党員、聖公会信徒。妻子は無く、生涯独身。

日本の江戸時代後期に来日して初代駐日公使となり、日米修好通商条約を締結したことで知られる。

日米修好通商条約は、安政5年6月19日(1858年7月29日)に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約である。

彼と結んだこの不平等条約により、日本は後々まで苦労させられる事になる。

親と子供、大人と子供、これは対等ではありません。

しかし、平等に親も子供であった訳です。子供が権利を主張するなら、まずは“親に従順”でなくては、話になりません。

そして、大人の存在を理解し、年上の権威というものが分からなければならないでしょう。
親に従順でなくても、大人の存在を無視しても、あくまでも自分の権利を通す子供は、一言で言えば“甘やかされている”だけです。

そして、そういう甘やかされて育った子供が大人になった場合、10のうち9は“使えない”のです。何故使えないのでしょうか?

理由の一つに平等と対等の区別がつかない事が挙げられます。


YAHOO!辞書による意味

たい‐とう【対等】 [名・形動]

相対する双方の間に優劣・高下などの差のないこと。また、そのさま。同等。

「―な(の)口をきく」「―な(の)立場」



びょう‐どう【平等】 [名・形動]

かたよりや差別がなく、みな等しいこと。また、そのさま。

「利益を―に分配する」「男女―」




同じようで微妙に違うんだな。“対等”には相対的な意味合いが付されていますね。“平等”が全体的なのに、“対等”は相対する(相手が限られている)双方となっていますね。

どんな人間でも、富豪になる権利はあります。どんな人間でも、幸せになる権利もあります。それは平等に与えられています。

しかし、実際には格差がありますよね。それは何故なのでしょうか?

それを得る事が出来たのは、その与えられた権利を獲得する為に、特別の努力をしたからです。若しくは行動を起こしたからですね。

それは努力の、そして行動の当然の“結果”として与えられる訳です。

しかし、“人間が全て対等でないといけない”と考えてしまう人間は、この努力や行動による差も否定してしまう傾向が強いようです。

甘やかされて育った事のツケでしょうか?

結果として、努力せず、行動も起こさず、リスクも負わず、学ばず、励まず、常に他力本願で、周囲に流され、自分にとって楽な方にしか行かず、堕落し、たまに注意されるとキレてその人を退け、自分を甘やかしてくれる所で同じタイプの人間と連なり、結果ますます駄目になります。

自分より恵まれている人間をうらやみ、ねたみ、そねんで・・・。そして、決まってこう語ります。

「人は助け合って生きて行くもんだ。あなたには弱い人の気持ちが分かりますか?」と。・・・。

“助け合う”この、一見素晴らしい言葉は、明らかに偽善的であると思います。

人には(企業などの集団ではなく、一個人の場合)人を助ける力など無いからです。

“いや、自分はそう出来る!”という人間は、実は自惚れているに過ぎない人と私は思います。

勿論、短期間ならば助け合う事も可能かもしれません、しかし、長期的に助け合うというのは、一度でも本当に助けてあげようとした経験がある方ならば、それが現実的ではない事実を認める事が出来ます。

人間とは、自分一人の分の人生しか負えない生き物なのです。こういった類の助け合うは、助け合うではなくて“依存し”あっているだけだと思います。

そして人に依存するタイプの人間は間違い無く、甘やかされていると言えます。

冷静に依存を分析するなら“自分は弱いという人の主張は、どんな強い人の主張よりも、実は強情で強い”事が多いのです。そこで既に対等ではないのです。

そういう、人に“依存する”タイプは人には対等を求めるのですが、自分からは他の人に何かを与える事はまずありません。

“何故強い人が強くなったのか?”などは決して考えないでしょう。

山谷やアイリン地区のドヤ街でよく聞かれるこの助け合い・・・。助け合うから駄目なのではないかと葛城は思います。

勿論、愛とは、与えるだけです。相互関係を求めた時に愛は愛ではなくなるのです。なので、場合によっては依存させるのを許す事も人の器です。

しかし、“愛に溺れた人間に”与えてやれるのは、ゲンコツの一撃だけです。そのゲンコツの意味を理解出来た時、理解出来た人は、後で感謝する事でしょう。

理解出来ない人は恨んで、ねたんで、敵視して終わりです。

そして“使えない”という事になります。学習しないからです。

反面、全ての人間は対等でないと分かっている人間は、決して敬意を忘れない。敬うべき素晴らしい人が社会に存在している事を知っているからです。

そして、敬うべき素晴らしい人は、“魚は必ずしも与えてくれなくても、魚の釣り方は必ず教えて”くれます。

平等である事の意味を良く理解しているからです。


2007年2月26日 (月) PM 23:15(晴れ)

生命力

人間の魅力って生命力だな。と知り合いと近所のうどん屋でお話していて思いました。

若い頃って感性が全体的に何となくピーキーで、感情がガラスのように繊細なものほど人間として素晴らしいのかな?と思ってましたが、今はそうでもないですね。

繊細な人って確かに素晴らしいし、芸術家は繊細でないと生きていけない訳ですが、生きるという事が課題になった場合、繊細さはネックになる場合があると思う。

繊細な人は人の感情に敏感でよく気が付いて素晴らしいのですが反面、人から何か言われると脆かったりしますね。

上手に機動力を生かして相手の攻撃をかわすのですが、何かの一発で沈んでそのまま・・・。という事もよくありますよね。

それは別の言い方で言うなら精度の高さと言えるかも知れません。

精度の高い人間というのは、物凄く気を使うけれど逆に、気を使われないと駄目という欠点に陥りがちかな?とも思います。

悪い言葉で言えば“打たれ弱い”となります。勿論、何かを人に言う時は、相手の言い方って当然ありますけど、言い方ばかりが気になっていて、“言われた内容”を考えないと、単に憎しみを募らせる結果になりますよね。

精密機械のように気を使ったり、繊細な事をする方は、そこが課題なのかな?と思ったりします。

逆に、ボサッとして、人の感情に何にも気が付かないというのも問題ですけどね。人に躓(つまづ)く人の共通点は、躓く人は繊細であると言えなくも無いですが、人に躓いてばかりでは自分に成長は無いでしょう。

感性は繊細である方が望ましいですが、大胆さや生命力は、図太い方が偉いです。

例えて言えば、下駄で顔面を蹴られても鼻血を出してゲラゲラ笑っているような人間は、まず無敵です。


矢吹丈
矢吹丈
生命力といえばこの人に勝る人は居ないでしょう。

最悪の環境から何度も何度も立ち上がり、数々の逆境をはね返し、打たれても打たれても立ち上がる。

実際ほとんどの試合でジョーは打ち負けている。判定では決して勝てないのがジョーである。

しかし、誰よりも勝っていたものは何かといえば、それは生命力である。ハングリー精神などという生易しいものでは無かった。

誰よりも打たれたからこそ、敗北があったからこそ、そこから立ち上がった彼は素晴らしいといえる

社会問題に成っていますが、若い子が自殺して死ぬのは繊細だからでしょう。

しかし、その程度で死ぬならやはり、そんなもんでしょうね。生命力に欠けていたという事です。

そして、生命力のある人間というのは、何よりも美しいものであると私は思います。


2007年1月11日 (木) AM 1:41(晴れ)


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