2008年のThought




世の中を円滑に進めるには嘘も必要という。いわゆる「嘘も方便」という奴です。

確かに、お世辞を言ったりするなんていうのは究極の所、嘘の益になる点と言えなくはないでしょう。

政治家やマスコミ、芸能人・・・。嘘の無い所は無い。幸せそうに振舞ってみたり、出来ないのに出来ると虚勢を張ったり・・・。

では、葛城は嘘を付いた事が無いのか?いや、嘘は沢山付いてきた。

しかし、今日は不思議とそれらの嘘が無意味だなと何故か思えました。

結局の所、本当に残るのは本来の姿でしかない訳で、本来の姿というのは嘘で誤魔化す事は決して出来ない。

地道にコツコツとやる事、それしかないんだよね結局は。

株や投機で一発儲けて!とか、そんな考えでは駄目だなと何故か不思議と思えました。

来年はどんな年になるのか?楽しみです。今年も一年ありがとうございました。
2008年12月31日 (水) AM 23:59(曇り)

政治力
人間には色々な力がある。身体能力、知力、魅力、人間力なんてのもある。

何々「力」という様々な力が存在する訳だが、その中に政治力というものがある。

葛城は、政治力が高いというのは、果たして美徳なのだろうか?とここ最近考えてました。

政治力が高いというのは、発言力やコミュニケーション能力が高いという事ではなく、政治が上手という事でしょうか?
上杉景勝公
景勝の影響により、上杉の軍兵は戦場でも無駄口一つ聞かず静まりかえっていたという。
大坂冬の陣の際、家康の使者が景勝の陣を訪れたが、景勝をはじめ誰一人として口を利かず、ただ大坂城を睨み付けていた。報告を受けた家康は「それこそ不識庵(謙信)以来の軍法よ」と賞賛したという。
実力があるからこそ、不言で良い。今の世の中では流石にこういう訳にはいかないだろうが、寡黙が欠点という事ではない事を教えてくれる名将である。

政治が上手というのはどうなんだろう?しかし、何となく政治力が高い人というのは、嫌な響きになるのは何故でしょう?

結局、「うまいことやる」能力を政治力が高いという表現で使う事が多いように思います。

現在は自分を美しく、より魅力的に魅せる技術で溢れている。自分に有利になるように物事を持っていく事は当たり前な事で、それは悪い事ではないのかも知れない。

ですが、その技術が度を過ぎてしまうなら、やはり美徳とは言えないと葛城は思います。

何事も、実力を伴ったモノでないとね。それにはやはりコツコツとやるしかないんだと思います。

それは、最近の葛城の目標でもあります。
2008年11月3日 (月) AM 10:26(曇り)


蟹工船
小林多喜二の蟹工船がブームだという。蟹工船といえば、プロレタリア文学の代表作といえる作品という評価だ。

内容は簡単にいえば、カムチャッカ沖で逃げ場の無い状況に追い込まれた蟹工船で働く労働者が団結して指導者や世の中に立ち向かっていくという内容。

まあ、要するに一揆ですよね。そうやって世の中は不満を発散させては、丸め込まれて今に至るのでしょう。

反乱するとかいうのは、生命力のある人間の行なう事だと葛城は思います。今の世の中は、「反乱する事すら面倒だ」という人々ばかりのような気がします。

諦めというのでしょうか?ある意味では無欲というのでしょうか?

本当は10を得る事が出来るのに、5あるからいいや。という感じでしょうか?

悪い意味で自己満足な世代なのかも知れません。
蟹工船
蟹工船 小林多喜二 著 新潮文庫

小林多喜二はこの作品により、特別高等警察に虐待され死んだとされます。

帝国主義、資本主義、共産主義、民主主義・・・。ま、色々ありますが、いずれにせよ国家主義というのは無理があると葛城は思いますね。

「人が人を支配する」という事は人間の構造上不可能でしょう。自分すら正確に導けない人間という存在が、何故人様を導けるのか?

蟹工船の乗員は、反乱したいという気になった。しかし、現代は反乱したいという気を上手に抑える社会があると葛城は思いますね。

蟹工船の指導者の浅川は、とんでもない「悪者」として描かれていますが、現代ではそうではない。現代は「良い人でも悪者でもない」という事を指導者は求められている気がします。

上手に丸め込んで「俺も大変なんだからさー、君らも頑張れよー」みたいなね。丸め込んで。(笑)

今は、労働力で上げた成果の10のうち10は取らない。10のうち3を均等に取ればいいじゃんって感じか?浅川は10のうち10を取ろうとした訳だが。で、今の日本は富裕層は景気がよくても、労働者は景気が悪いというこの辺りは確かに蟹工船と変わらないといえなくもない。

「みんなの」取り分が同じであれば不満は無くなるという訳だ。不思議だね。そこらへんを上手い事やる人が居るんでしょうね。(笑)

社会全体の中で人を「束」として集団でみれば、そう考える、つまり人を利用しようという考えを持つ事も或いはあるかも知れません。でも人間社会は束としての側面と同時に「個」というものも持ち合わせている。

社会は人間を束で考えます。個人は人間を個で考えます。これのバランスが大切ではないかと個人的には思います。

束を侵さない程度の個性、個性を侵さない程度に束ねる。そんな事でしょう。

束に対してある個が、多く貢献しているなら結果、多くを与えられて当然ですし、同じ束を構成しているそれぞれの個もそれを認めるでしょう。しかし、その多くを与えられた個が、束を「支配」するようになったとしたら、それはまた意味が違ってきます。

結局、内面的な事でいうなら「愛」があるか?という事かも知れません。これは、今の世の中では確かにチープに聞こえますが、支配とか権利とか利用するとか、そういったものを全て吹き飛ばしますよね。ま、偽善も多いのではあるが・・・。

やはり、自分の行った事は社会の体制がどうであれ、結局自分に返ってくるように思います。

蟹工船が仮にタイタニックであっても。うーん・・・。どちらがいいか?と言われて、まあ、どっちも悲惨か・・・。(葛城よ!結局何が言いたい・・・?)
2008年9月15日 (月) PM 23:16(曇り)

結果
お久しぶりです。この欄の記入も久々ですね。今回のテーマは「結果」について。

オリンピックも本日で終わり。日本はどうだったのでしょう?良かった点、悪かった点、色々ありましたね。

水泳では北島選手の世界新の二連覇は見事でしたし、ソフトボールは自分より強い選手と戦い、勝利できた点が評価されていますね。

悪かった点では、マラソンで棄権があったり、男子柔道や野球で散々という事になってしまいました。

スポーツ選手から色々な事を学ぶ事が出来るのは事実と思います。

スポーツは超絶なレベルになると、慢心や過信では決して結果を出す事は出来ません。しかも、オリンピックのような国際試合となるとそれはそれは大変ですよね。

結果を残せた選手というのは全員それなりの努力、特別の努力があります。前回は良かった。しかし、今回結果を残せなかったという選手には、特にその課題が重く圧し掛かったでしょうね。

その結果を生かして努力して「課題を乗り越えられるか?」とか、「どうして負けたのか?」など考えると、確かに次回への糧となります。

ですので、結果の悪い試合であっても、「内容を正直に見る」という事は大切ですし、それはまた、面白いものです。 大会の途中で公表された言葉
「感動」敗者にも敬意を

北京オリンピックでは8月16日午前9時までに、332のメダリストが決まった。私たちは、マイケル・フェルプス選手のように、奇跡を起こしたような選手たちに喝采を送ると同時に、初戦で敗れた選手や、五輪に出られなかった多くの選手を忘れてはならない。

そうした選手たちも、かつては優勝した選手たちと同じように努力し、競技場で自分の技を思う存分披露する夢を抱いていた。しかし栄誉と現実の悲しみに面した彼らにとって、失敗という言葉は永遠に避けたい言葉だろう。

五輪競技場での勝負はとても大切だ。しかし偉大な人格と公平な競争への尊重はさらに主唱される。「同じ世界、同じ夢」という理想の中で、負けた選手たちは英雄的な姿勢で、それぞれの角度からオリンピック精神と生命に対する追求を解き明かしている。

試合の残酷さと競技の公平さは、スポーツの永遠の魅力だろう。選手が競技に身を投じることは、つまりこの残酷さを選択したということだ。

私たちが目にするのは、表彰台に上がった時の選手であり、自分が定めた目標に進んでいる時の選手たちは私たちの目には触れない。これはオリンピック精神の感化と鼓舞であり、スポーツ競技の強靭さと執着さでもある。

敗者たちの失意と努力が勝者の実力を向上させ、彼らを本当の強者として世界の競技場に出場させる。そういう意味でも、敗者の貢献はオリンピック精神を豊富にしている。

オリンピックでは成敗を論じず、成敗で英雄を論じない。これは私たちが抱くべき人文精神と大国的な心理状態だ。私たちはメダルを獲得した選手に拍手を送ると同時に、オリンピックに向けて努力し、敗れた選手たちにも注目しよう。

エアライフルで金メダルに輝いたカテリナ・エモンシュ選手が、4位になった杜麗選手を抱きしめ、花束を贈ったのと同じように、私たちも全ての敗者に理解と敬意、寛容さを捧げ、私たちの誠意で力のない者に力を注ぎ、悲観的になっている者を前を向かせよう。


 「チャイナネット」2008/08/17


中国の英雄である、ハードルの劉翔選手の「結果」は中国国民のみならず、全世界を震撼させた。

だが、同時に中国国民の意見は、ストレートである。

形式的な礼儀だけが、賛辞ではない。それだけ国民は彼から励ましを得ていたと捉えるべきだろう。無論、棄権であっても「負け」である。結果を残した選手も居るからだ。
さて、ハードルは誰が勝ったか知っていますか?(笑)

面白い?自分が勝った時、結果を残せた時だけが面白いのではないのか?と思うのが普通でしょうね。

しかし、そこは人間もっとオープンな馬鹿にならないと駄目だなと葛城は思います。恥かいてナンボです。

負けた時は正直悔しいですし、悲しくもあります。しかし、弱点という課題が明らかになるというオマケもあります。

そこを真剣に考えられたら、次の結果は違ったモノになるでしょう。例え故障というアクシデントであったとしても、それも結果です。故障しないような練習をしなければならなかったという課題です。

いずれにせよ、トップに君臨するというのは凄い事ですね。そして、そういう試練に打ち勝ってきた人々は恐らく「人格者」でしょう。

人に勝たずに、自分に勝たなければ、結果は残せないからです。

葛城的には色んな意味で励まされた北京オリンピックでしたよ。大成功だったと思います。
2008年8月24日 (日) PM 20:50(晴れ)

不可能
不可能を可能にするというのは素晴らしい!だが、それはある意味大変な事かも知れません。

周囲は間違いなく何かに向かって励んでいるあなたを見て「不可能であろう」という事でしょう。周囲の意見と逆行しなければならない事も多いでしょうね。ある意味最も大変な壁は、その「周囲の意見をどうするか?」という事かもしれません。

他の人が意見を述べてくれるという事はとても有り難い事ではあります。でも、他人の意見はやはり自分ではありません。あくまで自分がどう思ったか?出来るか?出来ないか?で物事は判断しなければならないでしょう。

他人というのは所詮他人であり、他人は自分の代わりにはならないでしょう。また、それを望むべきでもないと思います。

不可能を可能にする方法はただ一つ!「やり続ける事」です。それも、「自分が」自らやり続ける事。

最近は、仕事でも何でも、「サービス」というのが増えました。・・・と言ってもまあ、昔からあった訳ですが、サービスというのは便利ではありますが、実は危険でもあると思います。

自分の代わりに色々と手を打ってくれるというのがサービスというのであるなら、サービスに頼っていると自分の力は間違い無く弱くなっているのではないでしょうか?ある意味サービスだけではなく、何かを「人任せ」にして失敗する人というのは、任せた分だけ自分がある一面で弱くなる事に気付かないからと考える事が出来ます。

しかし、きちんと何を任せているかが「把握出来ている」人間というのは、自分も同じ作業が出来るけど、「出来ない」のではなく、あえて「しない」訳であって、丸投げしている人間とは訳が違うと言えます。

丸投げしている人間はただ単に「無責任」なのであって、「任せている」訳ではないと言えるのではないでしょうか?
イスラエルの王ソロモンの言葉

箴言12:24 勤勉な者たちの手は支配を行ない,緩慢な手は強制労働に服する。

箴言13:11 むなしさから生ずる貴重なものは少なくなってゆく。しかし,手で集めている者は増加をもたらす者である。

箴言26:6 物事を愚鈍な者の手に押し付ける人は,自分の足を切り取っている者,暴虐を飲んでいる者のようだ。

考えてみるなら、全て自分の「手の」行う事が自分に返って来る。頭ではなく手が重要なのだろう。

不可能を可能にする事の第一歩は、実はそこなのかな?と恐れ多くも葛城は思ったりします。

何故不可能なのか・・・?他人ではなく、「自分に」問うてみれば、決して不可能な事など無いと言えます。自分で不可能だと思っている事は恐らく本気で考えたり悩んだり対策を練ったりする事などはないでしょうからね。

つまりその事を「本気で思い続ける事は無い」訳です。本気で思い続ける事が無いのなら、実行に移されることもありません。つまりは全て自分の問題という事になってしまいます。

自分で自ら不可能だと思う・・・。何故そう思うのか?そう考えるのか?それ、その問題となっている壁を蹴破るのはやはり自分だし、蹴破らなくてもいいやと思うのも自分と言う訳です。

ただ、蹴破らないのではなく、蹴破れ「なかった」人が居るとしたら、その人に大切なのは「蹴破った人間を妬(ねた)まない」事です。

蹴破った人間はそれだけの投資を自分に課し、それを行なった訳ですから。むしろ讃えるべきだと思います。

不可能というのはナポレオンの言うように確かに無いと思います。それを他人任せにしない限りですがね。

別の言葉で言うなら、人任せにしない人こそ、本当に感謝の出来る人だと言えると思います。

・・・。偉そうな事を言ってもね。ま、そういう人間でありたいなという私の願いですよ。(笑)

不可能を可能にするというのは、やはりやり甲斐のある事、つまり大変な事ではありますよね。ただ、やり甲斐がある事は楽しい事とも言えます。
2008年5月31日 (土) PM 20:46(晴れ)

限界
いずれ来るであろう限界というものに今回は焦点を当ててみました。

昭和の大横綱、千代の富士関は「体力の限界!」という一世を風靡した言葉により引退をされました。

彼ほどの名力士でも限界は当然ある訳で、それは周囲よりも本人が悟った時に表れる言葉なのでしょう。

「どうぞ、お体を大切に。」とか「無理をしないでね。」など、温かい言葉を受けると、嬉しくもありますが、反面、「そうなのか?」と思わなくも無い事も稀にあります。

自分はまだまだ全然大丈夫だよ!と思っていても、周囲がブレーキを掛ける。いや、まだまだやんなきゃいけない事出来てないよなぁ・・・。と思っても、「十分過ぎるよ。」という意見を貰ったりする・・・。

確かに、昨今は「燃え尽き症候群」とか「鬱」などといった精神系がおかしくなる病が全盛を迎えているので、注意は必要だろう。

しかし、自分の限界を自分で定めてしまっていて、果たして「自分を超える」という事は可能なのだろうか?とも考えてしまう・・・。
サイレンススズカ
サイレンススズカ
1998年度宝塚記念馬である。勝ったG1レースはこれだけである。しかし、彼が伝説となっているのは戦績ではなく、その疾走りのスタイルにある。将に限界を超えた「大逃げ」のスタイルで展開を無視して最初からアクセル全開!

しかし、自身のスピードに自分の体が付いて行けず、天皇賞秋で左前足を粉砕骨折。安楽死となる。一体彼は何だったのか・・・。主戦騎手である武豊ジョッキーは
「原因は解らないのではなく、無い。」と答えた。

ここで問題なのは「他人」を超える事ではなく、あくまで「自分」を超える事に関してである。

他人の要求に従う為に自分に負荷を掛け過ぎてしまう人が居る。ある意味、人が良過ぎるのでしょうね。

しかし元々、他人と自分は同じ人間とはいえ、全く違う人間である事は言うまでも無いでしょう。

例えるなら、一口に車といってもスーパーカーと、軽トラは意味が違う訳で、スーパーカーの速度域を軽トラで走ろうと付いていっても離されるばかりでしょうし、軽トラのように荷物を積もうとスーパーカーに荷物を載せても同じように乗らないのは当たり前です。

開発時点で設計思想が違うのですから、同じになる訳はありません。それぞれ目的に合った使用法と耐久性等の条件は違うのです。

それで限界ですが、限界とは他人が設定する事ではないという事になるのではないかと、葛城は思います。むしろ、自分を良く知る事、自分の分をわきまえる事で結果的に自分の性能を生かす事が出来るのでしょう。

常に問題になるのは、他人の期待や要求であり、自分の行なう事が問題になっている訳ではないという事でしょうか?

「君なら出来るよ」とか、普通の会話で励ましのつもりでか?簡単に言う人居ますけど、「あなたは私の何を知ってるんだ?」と、ここで書きつつも・・・。まあ、他人の期待や要求に全く答えない人間というのも問題ですよね。(笑)

その与えられている要求を「出来ない」のか?それとも「しない」のか?どちらの判断が正しいのか?それは自分で定める事。

理想を追い求める事は有意義な人生を送る上でとても大切と思いますが、その理想をイメージするのはあくまで自分であり、克服する必要のあるものなのか?そうしなくても良いのか?自分で選択するものは色々ありますね。

例えば、酒に強くなる必要があるという人が居ます。飲んで、吐いてを繰り返してだんだん強くなる・・・。でも、自分にその必要があるのかな?時速330kmの限界を超える疾走りを求める人も居ます。しかし、自分にそれが本当に必要なのでしょうか?

必要に応じて、自分を克服する事は大切ですが、その必要は誰の必要なのか?それは他人ではなく、自分の必要でしょうね。

「自分の人生の主人公は自分」でしか在り得ない訳ですから。
2008年4月28日 (木) PM 12:40(曇り)

学歴
さて、早くも入学、卒業のシーズンとなりましたね。今回の能書きは「学歴」についてです。

葛城は所謂「高学歴」ではありません。一応、高校は卒業出来ましたが。

どうして大学に進学しなかったかと言いますと、学校が「学ぶ場所ではない」と当時感じたからです。近年、学校は学ぶ場所ではなく、資格を取る場所であるようですね。

言うまでもなく資格は便利です。肩書きになります。その肩書きは、その人がどういった人であるかを判別する為の題材となる訳です。

資格を取り、大きな企業に就職して、高収入を得る。高収入を得る事により、物質的に恵まれて、家を築いて・・・。

しかし、人生に必要なのは実は高等教育ではなく基礎教育でしょう。肩書きよりも実力が問われますよね。肩書きを実力として使えるならば凄い事なんですがね。

以前、北野武さんが話しているのをTVで観たのですが、彼が語るには、

「昔、Aさんという男が居て、日本の放送の世界を変えてやると思って、外国の凄い大学を出て、日本に帰ってきてヤル気満々で修行していたんだけど、ある日横山やすしさんの付き人をやった時、「弁当の渡し方が悪い!」とヤッさんに怒鳴られてボコボコに殴られてそのまま・・・。」


・・・。


当時、ヤッさん恐るべしと思いましたが、同時に真理を含んでいるなとも思いました。

「学校では学問をある程度教えてくれても、生き方までは教えてくれない。」という事です。

大学に入るまでは「入れる頭」で良い訳ですが、大学を出て社会に出て必要なのは「出す頭」という訳です。

出す頭というのは、難しい事を学ぶ事で鍛えられる訳ではないのではないか?と葛城は思います。むしろ単純な発想力の方が重要かも知れません。

ヤッさんの例で言うなら、Aさんに欠けていたのは「実学」。つまり応用力が欠けていたという事でしょうか?普段生活していてもそういう方はたまにいらっしゃいますよね。

応用力は適応力とも呼べ、社会で生きていく為には社会に適応出来なければならない。この辺のニュアンスは非常に難しい訳ですが。

幕末の奇才である勝海舟はこう語っています。

「しかし人間の精根には限りがあるから、あまり多く読書や学問に力を用いると、いきおい実務の方には疎くなるはずだ。学者必ずしもうかつなのではないそのうかつなのは、力が及ばないからだ。」

なるほど勉強って疲れますよね・・・。さらに学者についてこう語ります。

「お前らの大切にするのは、失敬の比喩だが、ちょうど金箔の付いた書物を大切にすると同じだ。塵をつけず、下にも置かず、ずいぶん尊重はするけれども、さて実際の場合には、おれはけっしてお前らの教えを受けようとは思わないよ。はばかりながら実務のことは、おれの見るところがあるから、必ずしも古人にのっとらず、必ずしも書籍に正さず、事に応じ変に処して、莢(きょう)開いて豆落ち、水流れて渠なる的の作用があるのだ」。

実際の学問とは想定外の出来事への対応力という事でしょうか?これは確かに学校で教えてはくれないでしょう。
氷川清話
勝海舟 語録 「氷川清話」
幕末の鬼才である勝海舟が自らの体験談を語った書である。変幻自在、自由闊達な発想!弟子である坂本龍馬は彼の教えを受けて変革したので事実上、勝海舟が明治維新を創ったと言っても過言ではない。洞察力の鬼である。幕府側最強の人物とも言える。彼の言を明治政府が受け入れていれば、後の太平洋戦争は無かっただろう。

彼の素晴らしい点は、明治政府を斜に構えて観た事。あくまで徳川家に忠誠を尽くす臣下でありながら、同時に国家全体の事を考えて国政を背負った事にある。清貧な人物でもある。江戸っ子らしく皮肉屋なのが面白い!

彼の述べるように、「世間は生きている、理屈は死んでいる」という事でしょうか?

私の知り合いの学者に学歴に付いて尋ねると彼はこう言います。彼は数学、天文学などを得意とする学者なのですが、

「必要なのは学校卒業してさらにその項目を探求する意志があるかという事でしょ?みんな研究辞めちゃうじゃない。結局学問では金は掛かっても儲からないからね。」と。

何かを探求するのはとても大切な事ですが、それは学歴とはあまり関係が無さそうですね。探求するという事は行なった年数ではなく、いつまで続けるか?という事な訳ですから。

勿論、反面で、中学中退とかだと違う意味で問題かも知れません。「この人は普通じゃないんじゃないか?」と思われるでしょう。普通じゃないのは大いに結構なのですが、普通じゃないなら一体何が出来るのか?が問題になるようです。

結論として、学校で学ぶ事も重要ですが、学校以外で学ぶ事はもっと重要という事でしょうか?卒業生の皆様、学問に仕事に大いに励んでいきましょう。
2008年3月20日 (木) PM 17:29(曇り)

センス
「あんたセンス無いよね。」とか良く使われますが、今年始めの能書きはセンスについてです。(早くも2月なんですね。)

センスとは本当に難しいモノである。何しろ人によって定義が違う!

例によってネット辞書でセンスを調べると、こうある。

センス【sense】
1 物事の感じや味わいを微妙な点まで悟る働き。感覚。また、それが具体的に表現されたもの。     「文学的な―がある」「―のよくない服装」「バッティング―」

2 判断力。思慮。良識。     「社会人としての―を問われる」

そうなのである!センスとは非常に微妙な点。だからとっても難しい。さらに、「何となく」変とか、「何となく」そう思う。など、「何となく」というのがセンスの良い人の語る言葉。

さて、何となくというのを言葉にする事が出来るか?・・・。これはやってみると難しい。

こんなふうに、簡単に定義で割れない。それがセンスという事かも知れません。

センスは持って生まれたモノや環境によって影響を受ける訳ですから、センスの良し悪しは先天的と言えなくも無いですが、辞書にもあるようにセンスというのは判断力や思慮などの感覚をいう訳なので、これを鍛える事は出来ると思います。
(私が偉そうにセンスを語っても、頭が今時リーゼントパーマな男が、こんな事を語れる訳も無いのではありますが・・・。許して下さいね。)

全体的に考えてセンスが無いなというモノから、一部分ではハイセンスだなと感じるモノまで様々ですが、鍛える方法の1つは、見聞を広める事でしょうかね?

広く学んで上がる事もあれば、深く学んで上がる事もあると思います。広い所から導き出したセンスは、多くの人々に認められる結果となるでしょうし、深く学んで得たセンスはその突き詰めたジャンルの中では、神格化された存在として認められる可能性もあります。(後者は知る人しか知れないので、センスという事では、偏る訳ですが・・・。)
湘南爆走族 10オンスの絆
湘南爆走族 10オンスの絆

ボクシング部員  「センスの悪い男だぜ・・・。汗流してりゃキマる奴なのに、暴走族なんかやってやがる・・・。」

権田二毛作  「俺たちゃこういうのが最高に気にいっているのさ。」


「気持ちの輝きってやつ」を忘れなかった権田は、恩師に彼なりの恩返しをする。熱い昭和の名作ですね。

いずれにせよ、センスに関しての問題は「自分でセンスを消化する事」ではないでしょうか?

他人のセンスは所詮他人のモノ。自分のモノにするという事は結局の所はそれを意識しているかどうか?という事かもしれません。

色んな事にセンスが関わっていて、発言や対応などセンスの無い事で失敗する方が多く居られます。外見のセンスも大切ですが、他の人とのコミュニケーションや会話のセンスというものも研きたいものですね。

意識する。それだけで明らかにセンスは向上するはずです。
2008年2月7日 (木) PM 12:48(晴れ)


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