2010年のThought



知識

さて、今回は知識。

近代人は非常に博学であると思う。知れる情報は非常に多い。

インターネットは世界中の情報を収集出来るし、新聞、テレビ、雑誌はたまたメールや学校など・・・様々な知識を教えてくれる。

色んな事を知れる、それで得た事柄を知識といいます。

しかし、知識を活用出来るか?というと、これは全くの別問題ですね。

知識を活用するには“知恵”が必要ですよね。それに、知識を得て知恵があっても、考え過ぎて何も出来ないという事も在り得る話ですね。

行動するというのは考え過ぎると行なえない。つまり、知識が多すぎると人は動けなくなる。

こういう事を今日友人とお話しました。

生粋の博多っ子の60歳過ぎの方なのですが、彼は釣りが好きなのです。当然魚も好きです。中でもボラが好きとの事。

「えっボラですか?ボラなんて臭くて美味しくないでしょう?」と私が尋ねると、

「いやボラは綺麗な海におったモンなら物凄く美味いとよ。」と熱く語っておられました。

ボラは3枚に卸して、身を薄く切って氷にさらして、あらいにして食べるらしい・・・。

ま、それはよいのですが、彼はこういうのです。

「若い頃は魚を絞める事なんて何とも思わんかったばってんねー、この間ボラを釣った時にボラと目が合うとよ。
ごめんなー言うて首の骨を折るばってんが、ヒューヒュー言ってボラが啼くとよ・・・。
そん時思うたね。自分は何と可哀想な事をしとるんかって・・・。」

こういう事は彼ではなくても、我々も多々あるのではないかと思います。

つまり、知識が多くなると動けなくなる事の好例ではないかと思います。

若い頃は何とも思わなかった事でも、相手の身になって考えてみるという知識が付いてしまい、結果的に“動けなくなってしまう”という・・・。

では、動けなくなった事は悪かったのでしょうか?

ある意味ではそうかもしれません。行動力を殺がれたのですから・・・。

しかし、ある意味では成長したとも言えるのではないかと思います。

別の言い方では、“より重要な点を見極めが出来るようになった”という事でしょう。

勿論、私の友人は今でも釣りに行き、ボラを釣り、首を折って殺します。

しかし、何かを考えて殺すというのは、何も考えずに殺す事よりも意義のある事だと私は思います。

その行動には、“自制”が働くでしょう。そしてその自制は知恵とも言えると思います。

行なわないというのは、行なえないという事とは異なるという訳です。

「自由に何かをやって見て下さい」と言われて、何かが“行なえない”人が居る半面、
何かを“行なわない”人もまた居る訳です。

前者は後でおそらく何も得ないでしょうが、後者は後で何かを得る事でしょう。


2010年9月5日 (日) PM 7:35(晴れ)




札(ふだ)じゃないぞ!今回は礼儀の礼がテーマです。崇高なテーマですね。


仁 義 礼 智 忠 信 孝 悌

といえば 誰かさんのギターですね。(笑)

元々は滝沢馬琴の南総里見八犬伝という本に出てくる8人の剣士がそれぞれそういう特質を持っていたというのが起こりのようです。

しかし、さらにその由来を調べると、これは中国の儒教に由来する考え方なのです。

大体は仁義の2つで片付けてしまいますが、事細かく細分化するとこのような8つの徳になるのです。


 (じん) 思いやり

 (ぎ) 正しい道筋

 (ち) わきまえる事

 (ちゅう) 主人に尽くそうとする思い

 (しん) 真っ直ぐな事

 (こう) 親に感謝する事

 (てい) 兄弟を大切にする事


それぞれに素晴らしい特質ですね。
そして今から考える 
 (れい) を加えて8つの特質となります。

礼・・・。この難しく分かり難い特質を考えると中々面白いです。

結局この8つの特質は一言で言い表す事が出来ます。それは、“愛”。

儒教的な考えではなく、西洋的なというかキリスト教的な考えで言うなら愛ですね。

コリント人への第一の手紙の13章にこういう言葉があります。

たとえわたしが人間やみ使いのいろいろなことばを話しても,愛がなければ,音を立てる一片のしんちゅうか,ただ鳴り響くシンバルとなっています。

そして,たとえ預言の賜物を持ち,すべての神聖な奥義とすべての知識に通じていても,また,たとえ山を移すほどの全き信仰を持っていても,愛がなければ,何の価値もありません。

そして,ほかの人たちに食物を与えるために自分のすべての持ち物を施しても,また,自分の体を渡して自分を誇れるようにしたとしても,愛がなければ,わたしには何の益にもなりません。

愛は辛抱強く,また親切です。

愛はねたまず,自慢せず,思い上がらず,みだりな振る舞いをせず,自分の利を求めず,刺激されてもいら立ちません。

傷つけられてもそれを根に持たず,不義を歓ばないで,真実なことと共に歓びます。

すべての事に耐え,すべての事を信じ,すべての事を希望し,すべての事を忍耐します。愛は決して絶えません。

・・・。ま、このように儒教と同じように立派な特質ですが、“愛”という1つの主題にまとめられる所がキリスト教の素晴らしい所ですね。

ここでもう一度“礼”に戻りますが、このキリスト教の愛の定義の中に、礼と同じような考えが出てきます。

そうです。愛は、辛抱強いので、持続性があり、親切でねたまず、自惚れず、他の人の事を考えた振る舞いが出来て、自分の事だけを考えない・・・。

という事なのです。これが儒教でいう所の“礼”ですね。

しかし、重要なのは“心”。
仮に心が無いのに礼を表わすとどうなるか?これは孔子に答えて頂こう!

論語の八イツ(人偏に八と月)第三の三 及び四にこういう言葉があります。 
(一応漢文等も載せておいたが、訳分からなくなるので、赤い文章だけを読もう!)


漢文
子曰、人而不仁、如禮何、人而不仁、如樂何。

文語
子曰わく、人にして仁ならずんば、礼を如何(いかに)せん。人にして仁ならずんば、楽を如何せん。



現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「仁愛を持たぬものが礼儀正しくしたとしても無意味である。仁愛を持たぬものが音楽を奏でたとしても無意味である。」


漢文
林放問禮之本、子曰、大哉問、禮與其奢也寧儉、喪與其易也寧戚。

文語
林放(りんぽう)、礼の本(もと)を問う。子曰わく、大なるかな問うこと。礼は其の奢らんよりは寧(むし)ろ倹(けん)せよ。喪は其の易(そなわ)らんよりは寧ろ戚(いた)めよ。


現代語訳
林放が礼の基本について尋ね、孔子はこう答えられました、「良い質問だ。儀式においては華美にするより慎ましくした方が良い。葬式などにおいては体裁を整えるよりも心から悼む方が良い。

孔子
孔子
BC551年9月28日〜BC479年4月11日

春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。

氏は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。
孔子とは尊称(子は先生という意味)。


若い頃、論語など中国古典に、はまった葛城なのである。

その影響力は中国は勿論の事、日本、朝鮮半島とアジア的な“徳”とされる事の中心に居るのが彼の言葉なのである。

ちなみに彼の考え方は性善説と性悪説という2派に分かれていき、それぞれの教えは確かに精錬されるも、本来の生気を失う事になる・・・。

果たして彼は祭られる事を望んでいたのだろうか・・・。

・・・。どうやら、そういう事のようです。(笑)

そう、どんな時も“心”が礼なのです。
心から感謝するとか、心からそうしたいと思うという思いが礼に表れる訳ですね。

しかし、形に拘ってしまって後の孔子の弟子達つまり儒教を奉じる儒学者の多くは単なる“偽善者”になってしまいました。

これは儒教に限らず、キリスト教でも同じですね。キリストは何と言ったか?
ヨハネによる書13章35節にこうあります。弟子達に語った言葉なのですが、


「あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです。」

偉大な教え手達というのは、常に心を重視したのですね。

その心をどういうふうに表わすかに拘る事が礼という事なのでしょう。

真実ってシンプルですよね。恐れ多い事ですが、孔子にしろ、キリストにしろ“本当の姿は”今伝えられている姿よりももっと生き生きとしていて、親しみを感じる方々だったと思います。

自らが神として崇められるよりは、「一緒に食事でもどうですか?」といわれる事に喜びを感じるような方々だったろうなと。

2010年7月26日 (土) PM 18:08(晴れ)

ストレス

葛城はストレスが無い。

うーん・・・。「ストレスあるでしょ?」といわれてもそれが何なのか・・・。

ストレスって嫌な事をやってて発生する訳ですよね?基本的に嫌な事をやっている暇は自分には無いので・・・。

嫌な事はしない。嫌な事はしないけど、それは苦労から逃げるという意味ではないです。大変な事というのは実は面白いと葛城は思っております。

最強の傾奇者であった前田慶次郎は漫画“花の慶次”の中で、
「いくさって奴は負けいくさこそ面白いのよ」
と語っていますが、確かに誰でも出来る事をやったからといっても、それは充実にはならないように思いますね。

ある意味、緊張感を持っている人が最も人生を豊かに生きているようにも思います。


前田慶次郎
前田慶次郎 (生没年不詳)
戦国武将。加賀100万石の前田利家の甥にあたる。
豊臣秀吉に傾奇御免のお墨付きを貰い、“どこでも何でもやってよい”という許しを貰ったという華のある漢である。

堅苦しい思想が先行しそうな戦国時代であるが、実は逆。
死と常に隣り合わせだったからこそ、生き方が太いのだ。

慶次郎は戦国武将の中でも随一といえる個性派。個性派だからこそ、自分に責任を持つ生き方を全うしたのだ!

最近若い女性に人気という戦国武将という存在は、マンネリ化した社会と、生き方のハッキリしないつまらない男にうんざりした結果なのではないか?と・・・。

さらに人がどういう評価をしようが、自分にとって遣り甲斐のある事を行なうなら、他人はどうであれ自分は満足出来るし、どんなジャンルであれ良い仕事をしようと思えば向上する喜びを味わえる。

ま、後々まで後遺症に苦しまないように、後悔する決定は止めた方がよいですがね。

何かの責任に雁字搦めになってしまっていても、要は周囲ではなく、自分がどうするか?でしょ?

やらされていると感じると嫌になるけど、自分でやる。人に嫌々合わせようとすると、自分が死ぬ。

自分を殺し過ぎると確かにストレスがあるかも・・・。何の為に生きてるのか分からなくなっちゃいますよね。

人に合わせるという事は一見、愛がありそうな感じなんだけれども、実は只の嘘つき。

喜んで他人に譲歩するという事は喜びというのはあっても、他人に合わせてばかりいると結果的に後々で他人にも負担になるんですよね。

そして、他人は自分の生き方に関して責任は取りませんからね。(笑)

人は人。自分は自分。
自分には自分の道があると言い切れる人間に成るなら、ストレスで死んでしまうような事には成らないのではないかな?と葛城は思います。


2010年6月26日 (土) PM 17:28(雨)

技術

今回のテーマは“技術”。

技術力って素晴らしいですね。
葛城は昔から職人が大好きである。

職人さんというのは、やはり素人とは違う。何が違うのかといえば、やはり技術が違う訳です。

例えば板前さんの場合、魚を解体する技術は素晴らしいものがあるし、機械系では、エンジンを組む技術などは本当に素晴らしい。

素人でも職人顔負けの技術を持つ人も居るけれど、やはり葛城は職人に憧れる。職人さんの“1つの事に専心する”という気持ちが好きなんだな。

職人の多くは弟子を育てるにあたり“自分を良く見てマネをしろ”と言う。多くを語らないし、必ずしも弟子の質問に答える訳ではない。


“職人”に関するウィキペディア ↓
職人 Wikipedia

なるほど!確かにそうですよね。色々やりながら覚えていく訳です。やはり時間が掛かりますよね。

最近、ある職人と知り合いました。
それはまあ言うなれば只の魚屋のオヤジさんなのですが、超職人気質!

多くを語らない。そして弟子の動作が違うと怒鳴る!
隣で右往左往する弟子に、技術を手取り足取り教えてあげれば良いのに・・・。
と、つい最近まで葛城は思っていましたが、今は“教えない方が良い”と180度考え方が変わりました。

しかし、その魚屋さんは口で教えない代わりに、自分の技を常に見せる。
弟子はそれを勝手に“見て育て!”という考え方な訳です。

ある意味、傲慢なんじゃないか?と思うような感じもあるのですが、魚の解体とギターでは教える事のジャンルは違いますが彼の教え方は私にとって非常に参考になりました。

多くの生徒は、教えても教えても技術を吸収出来ない。
それは何故か?“自分で考えないから”だと言える。

親切に丁寧に教えてあげれば教えてあげるほど、吸収力が弱いような気がする。
そして技術の習得に対する感謝が無いような気もしますね。

しかし、見て学ぶ、若しくは技術を盗めというやり方は、確かに本人のやる気を殺がないような気がするのです。

意地悪で教えないのではなく、自分で考えなさいという意味で教えない。

これはアリだと思います。伝統的に魚屋さんとか板前さんなどは教える時に多くを語らない訳ですが、これは、理由がある訳なんですね。

勿論、場面場面で言う言わないの判断もありますので、全てを言わないというのは駄目と思いますが、私の知り合いの職人さんは決して悪気がある訳ではない。

むしろ弟子の事をよく考えているんだなと何故か心地良くなりました。

技術というのはある意味その人の人生を懸けた集大成な訳で、それを教わるという事は本当に有難い事だという“感謝”が絶対不可欠ですよね、やはり。


2010年4月28日 (水) PM 18:15(雨)

維新

2010年になり、1月ももう半月過ぎました。皆様いかがお過ごしでしょうか?

昨日と同じ、変化の無いのように日々が過ぎて行くように思えますが・・・。そうです!全く同じように1日1日を送っていても、全く同じ1日など1日も無いのです。

さらに、そこに感動があったり、新たな発見があったりすれば、より一層の充実があるのは確かなのですがね。

さて、2009年はアメリカや日本で、政権の交代があったりでしたが、今年は去年に引き続き、“変革”がテーマなのかもしれませんね。

色々な方々のサイトなどを拝見させて頂くと、今年からの新たな企画があったりしますよね。

NHKの大河ドラマでも、龍馬が取り上げられたりして、別の言い方では“維新”というのが日本のテーマなのかもしれません。


坂本龍馬
坂本龍馬

享年33歳。日本の志士。
燃えるような志と大きな心は現在も人々を魅了して止まない。

葛城の好きな龍馬の言葉。


「俺は、昨日の俺ならず。」

常に新しい事を発見しようとしていた最も龍馬らしく最も意味のある言葉だと私は思う。




単純に旧体制を破壊しようと思っていただけの過激尊王攘夷派の革命家から始まった龍馬であったが、見識を持つ、学ぶに足る人物と知り合う事により、さらに大きな人物へと成長していった。

土佐弁って何かいいですよね。


維新・・・。要するに、新しく成りたいという事ですよね。

マンネリ感を取り除きたい・・・。トキメキが欲しい!という事でしょうか・・・。新鮮味が欲しいのでしょうか・・・。分からなくは無い感情ですね。

既存のモノを打ち壊して、新たなモノを打ち立てる・・・。その考えは“革命”であり、維新でもある。

しかし、旧来のモノを本当に壊してしまって良いのでしょうかね?と自問してみるのも大切ですよね。

何かを成長させるというのと、何かを破壊するというのは意味が異なります。

現状を破る為に、今までの事をやめて何か新しい事に取り組むというのも重要ですが、
今まで築いてきたモノに立脚して次があるのです。

例えば、50歳を過ぎて、シンガーソングライターに成りたいと思ったとします。勤めていた会社を“辞めて”音楽に専念するとします。そうする事は可能ではあるでしょう。
ですが、会社を辞めて“新たに”行なうのではなく、今までの自分を認め、今の自分を認めた上で今までの自分に加えて、ミュージシャンに成るのも可能でしょう。

勿論、10代の頃から音楽をやってきたような人と技術的に比較するなら、技巧的な意味での蓄積が無いので拙く思えるかもしれません。

しかし、自分の歩んできた道を語るという事でならば、その蓄積されたモノが技術と言えるのではないかな?と葛城は思います。

自分を否定する事で何かを得る訳ではなく、自分を認める事で、人は何かを得るのではないかな?と偉そうに思える今日この頃です。(笑)

ですので、嘘くさい生き方?をしていると、後で後悔をする事になってしまう。

蓄積が全てであるという事は変わらないからですね。

要するに今までの事を捨てるのではなく、改良する訳です。
蓄積を捨てずに利用する。(笑)

さて、その蓄積されたモノ。大きく考えてみるならば、モラルであれ、文化であれ、技術であれ、何であれ、実は“新しいモノと言えるモノは実は地上には何も無い”とも、葛城は思います。

昔の人々も我々と同じように喜怒哀楽の中で苦労し、悩み、生活してきたのです。
そしてどんな科学技術であれ、実は人間は元々自然界に元々あった技術やモノを発見して利用しているだけなのです。

維新というのは新たな発見があってある訳ですよね。という事は、現状の中でも工夫次第で十分トキメキや新鮮さは再発見出きると思います。

気付くという事。とても大切な事ですよね。

話が前後しますが、歩んできたその道が、偽りの無い気持ちで行なった事であったなら、きっと何かを発見する感動があると、葛城は信じています。


2010年1月15日 (金) AM 0:59(雪)



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